2012年03月30日

また大阪

 29日からまた大阪にいる。10日間くらいは帰れそうにない。
投稿者: 大澤義孝  | 日記

2012年03月21日

部屋の照明をLEDライトに交換

 部屋のシーリングライトの蛍光灯が切れた。ついでにスイッチの紐も切れた。もう十年くらい修理しながら使っている。
 ホムセンに交換パーツを買いにいったら、LEDシーリングライトが特売してた。消費電力は半分になるし、蛍光灯のように切れたり経年変化で暗くなることもないしと考え買い換えてしまった。
 「LED照明は長寿命」というのは、まだあまり信用していない。LEDは長寿命だけどそれをドライブする回路の寿命はLEDよりずっと短いと思っておいたほうがいい。コンデンサの寿命はそんなに長くない。寿命は十年となっているが保証は一年なわけで、念のため三年の延長保証に加入。
 とりつけてみるとめちゃくちゃ明るいし調光もできる。こりゃええわ!

 意味不明のおやすみタイマーもついている。寝るときに10分/30分かけて、だんだん暗くしながら消灯してくれるものらしい。いるか?そんな機能?
 あ、子供を寝かしつけるのによい機能なのかな?
 でもいらないよ、そんなの。

 最近の家電製品は、どれもこれもたいして役にもたたない余計な機能をつけすぎだ。多機能にすればするほど、つかいにくいものになっていく。その極致はスマートフォン。
投稿者: 大澤義孝  | 日記

2012年03月19日

家は狭いほうが住みやすい

 大阪の実家から自宅にもどってくると実に快適だ。実家ではトイレにいくのに寒い階段や部屋を横切りながら5つの扉をあけ、照明をつけながらを20メートル近く歩く。用が済んだら、ふたたび扉を閉め照明を消しながら自室に戻る。(部屋の間取りが悪いんだけどね)。寒いキッチンにいくのも面倒で、コーヒーを入れることさえおっくうになる。
 横浜の自宅は狭いけど、光熱費は節約でき暖房も無駄がない。収納や整理法を工夫すれば、部屋が小さくても、物の置き場がなくて困るってことはないし、隅々まで注意力がはたらくので物を探しやすいし取り出しやすい。無駄なガラクタをため込むこともない。
 少し狭いくらいのほうが部屋は住み心地はよいと私は思う。必要以上に大きすぎると生活スタイルに怠惰が入り込んだり、維持費で多くのロスをだしたりして、住んでる人に害をなすようになる。

 一人暮らしも引っ越しすらもした事がないのに、金があるからとポンと家を買う人もいるようだけど、家というのはほんと恐ろしい買い物だ。いくつも物件を見て、住んでみて、失敗する経験もした上でないと、決してよい家を見分けることはできない(これはすべての買い物に言えることだが)。
 間違った家選びは、住む人をドツボにはめ不幸にする。借家なら逃げ出せる。持ち家になると、しまったと思っても、逃げ出すことはかなり難しい。
投稿者: 大澤義孝  | 日記

2012年03月18日

横浜に戻った

 旅費がかさむのでものは試しと帰路はバスにしてみた。新幹線の半値以下で済むけど時間は三倍くらいかかる。そんでも特急バスの座席シートは新幹線よりすこし大きめだし、リクライニングも効くので、ねっころがっていられる。途中で三回、サービスエリアで休息もある。山の中のSAだと空気もよくて気持ちいい。いそぎの旅でなければ、なかなかよいのではなかろうか。とはいえ9時間もかかると疲れる。渋滞にあうともっと時間がかかるはず。しかし家族旅行なら交通費が半値はお値打ち価格かも。浮いた分を宿や食事にまわしたほうが幸せ感は高そう。

 30人ほど乗せて6000円で大阪・横浜と運んで儲けが出るわけだと、これに対して新幹線の原価ってどれくらいなんだろうか。設備投資は大きいけど、一回に1300人以上も運べるし、ひまなときはがら空きだけど、それでも赤字にはならないように設定してありそうだ。新幹線は利便性や快適性で大きなアドバンテージがあるけど、原価で見ればぼったくりかもしれない。

 横浜に戻ってきて最初に感じたのは空気。空気が新鮮なのはちょっと意外だった。人は多いけど街も地下街も道路が広くゆったりしている。街がめちゃくちゃ明るい(これは観光地だからか)。
投稿者: 大澤義孝  | 日記

2012年03月16日

大阪の喫茶店にて

喫茶店でおばさんと二十歳代くらいの娘さんが大声で話していた。
二人は母子の関係ではない。
娘「これディズニーランドで集めてん」。
(遊園地の記念メダルで、専用ホルダーにいれてある)。
おばちゃん「へー、これいくらすんの?」。
(いきなり値段からつっこむ)。
娘「一枚百円」。
おばちゃん「ひゃっくえん!!!タダちゃうんか!?」。
娘「うん、園内のあちこちで売ってんねん。ほんで回って集めてんねん」。
おばちゃん「(材質は)なにでできてんの?」。
娘「んー、銅やな」。
おばちゃんはメダルホルダーを手にもって、
「おっ、ずっしり重いな。こんなもん金だして買うのバカやろ!何枚こうたんや?」。
娘「26枚」。
おばちゃん「はっ?2600円!!おどろくの通り越してあきれるしかないわ!あほやなー。でも、きれいやな」。
(最後にやっとポジティブなお言葉)。
娘「ふへへ」

 なんか字面が悪いんだけど、娘さんは悪意とは感じてないようだったし、おばちゃんにも悪意はないと思う。これが大阪クオリティのコミュニケーションだな。
 おばちゃんのいいたいこともわかるんだけど、なんか感情表現が屈折してるような、あるいはストレートすぎるというか、潤いがないというか。
投稿者: 大澤義孝  | 日記

2012年03月15日

大阪市内雑感

 大阪の町は住宅も店も密集している。建物は長屋作りが多くて、隣の建物との間に隙間はほとんどない。密集して店などがコンパクトにまとまっているので、移動手段は徒歩でことたりることが多い。横浜では私は毎日のように二駅間を散歩するけど、大阪京阪線だと四駅分くらいに相当するかも。

 ところが大阪はなぜかみな自転車に乗る。自転車の数はとても多く駐輪場も多数。なんでこんな近場で自転車に乗るのかと思ってしまうけど、私も大阪にいたときは自転車にのっていた。大阪の友人によると自転車好きは どうやら大阪人の気性らしい。セカセカしているというか。それと大阪の鉄道は初乗りが200円で少々高い。(そのかわり遠くまで乗っても料金の上昇は緩慢。2−3駅を電車に乗るくらいなら、自転車のほうがお得ってことか。
 大阪の道は三叉路、五叉路が多く、葉脈の編み目のようになっていて複雑。車の多い大通りをさけ裏道を歩いていると、あさっての方向にそれて迷子になったりする。電車代をけちって自転車で遠乗りしたはいいが、迷子になって困ったりする。

 町はどこかすすけている印象がある。ナニワ金融道で強調して描かれる町の風景のようにすすけている。だけど町はずいぶんきれいになっていて、実際にはすすけてないんだけど、やっぱりすすけて見える。これはオーラに属する印象だけど、ひらたくいえばほこりっぽいのかも。大阪の友人はすすけているという私の意見には同意しなかった。
 大阪から東京に移住して、しばらく住んでもどるとそう感じると思う。ナニ金の作者も大阪で暮らし関東圏で漫画家してたわけで、はなれると見えてくるものだと思う。

 大阪中心部は緑が少ない。関東圏にくらべるとほんとに少ない。川の護岸は鉄板でガードされていて、自然は死んでいる。昔は工場がたくさんあったが、今はあまり残っていない。ガキのころ、高校のそばを流れていたドブ川は七色に色がかわった。(それって日野日出志?)

 外食は関東圏より100円から200円安くあがる。んでも、値段設定がロープライスというだけで中身は値段相応かなあ。しかし自炊が面倒な一時滞在ではありがたい。大衆食堂もよく目にする。毎日の普通のごはんメニューを提供してくれるし安い。
 あ、それから雰囲気のよい喫茶店が多いのがよい。

 人は腹が強く押しが強い。少々粗野かも。お店の店員さんの接客態度はずいぶんおだやかになった。大阪は商店街が発達している。にぎわっているけど、シャッターしまってるところもかなりあり、あまり景気はよくないのかな。商店街にたこ焼き屋がふえたー。なんでこんなにたくさんってくらいある。昔は駄菓子屋の副業とか、民家の小遣い稼ぎのようなものだったのに。大阪のたこ焼きは安くておいしい。関東圏はぼったくり。

 公共施設のバリアフリーも完備されつつあるが、まだ少し遅れてる。
投稿者: 大澤義孝  | 日記

2012年03月11日

Skypeでテレビ電話

 横浜の連れと電話で話すと電話代がひどいことになるのでSkypeをつかっている。映像つきでずっと話していられるので、とても便利だったりする。受話器を手にもつ必要もなく、ノパソの前で普通に話し、普通に相手の声を聞ける。姿が見える。昔、SFによく出てきたテレビ電話そのものが実現している。
 にしても携帯の通話料はどーしてあんなにバカ高いんだろう。ひさしぶりに大阪の古い友人に電話をかけて三十分話したら通話料千円だって。夕食は六百円の餃子定食だったので、電話代がぼったくり価格に思えてしまった。
 東電はずいぶん水増しして電気代を設定していたけど、たぶん、携帯の通信費だってにたようなものだろうな。「基地局の設備投資に金がかかるんですよ」なんていわれたくらいでは信じない。
投稿者: 大澤義孝  | 日記

2012年03月09日

大阪にて

 母が病気で入院してしまった。だもんで定期的に大阪に帰って面倒みてたりする。
ちょっと大病だけど治るとのこと。病院で医師や看護婦さんと話すと、力強く「治ります」というし、そうやって病人を励ます。その声は腹が据わって、それだけで元気が出る。 病院というのは、あたりまえながら病人ばかりで、私なんかは病院に行くと病の「気」に当たりそうで、いや実際、病院の気はやっぱりお世辞にも健康的ですがすがしい気が流れているとはいえない。
 毎日病人をあいてに働くってのは大変なことだろう。エレベーターに乗ると若い看護婦さんが、若いドクターらしき人とおしゃべりしてる。
 「もうここ、やめちゃおうかな」。
 寝たきり老人もたくさん面倒みてる病院で、そういう病人がすし詰めにされてるような病室をのぞいてしまったときはさすがに引いた。九十歳を超える寝たきり老人たちは呆けていて、口をあけて寝ているばあさんには歯は一本もない。中にはベッドにしばりつけられているのもいる。こういうのも老人医療のまがまがしい現実だったりする。元気爆発の看護婦さんが寝たきり老人に明るく声をかけ、機械で痰をズルズル吸い取っていたりする。
 みょうに元気爆発な看護婦さんに、スゲェと素直に感動してしまうんだけど、たぶん元気オーラ全開に到達する人とだめな人がいると思う。若い看護婦さんにこのハードルは大きな試練なのかもしれない。
 寝たきり老人になるのは他人ごとではなく、自分の親も、また自分も、嫁さんにもやがてやってくる未来かもしれない。若いときはそんなことは気にならないものだろうけど、五十が近くに見え始めると、老いと死の問題は、だんだんリアルさをおびてくる。
 昔は死期がせまったらお遍路さんに出て、行き倒れることができた。最低限の食事や寝床は提供してもらえた。行き倒れた修行者は、その土地の人々が弔ってくれた。
 現代のお遍路さんは、観光旅行かファッションみたいになってるけど、元はといえば出家して聖なる巡礼の旅に出て、尊厳をもって死ねるためのシステムだった。全行程千数百キロの道のりを徒歩。それがすべてを物語ってるわけ。「夏休みに車ですべての巡礼地をまわってきました。楽しかったです」なんて人は、なにもわかってない。

 人類史上、死をまぬがれた人はただの一人もいないし、医療がいくら進んでも死にいたるまでの多少の時間稼ぎができるだけだ。「ボケはじめたおばあちゃんが新しい治療法でみるみる回復」なんて話は、それ自体はけっこうなことだけど、でももっと歳食えばやはりボケてしまうわけで。
 老人医療を推進するよりも、尊厳をもって死ねる仕組みを国は作ったほうがよいのでは。老人でなくても、出口なしで苦しんでるニートもいっぱいいるわけだし、スマートに幕引きできるシステムがあればよいのに。霊的修行の旅に出るというのは、なかなかよいと思う。
投稿者: 大澤義孝  | 日記