2015年01月31日

馬券偽造師という本

 『「馬券偽造師」中山兼治/著 幻冬舎』という本を読んだ。偽造師本人が書いたノンフィクション。
 このところ競馬関係の本を乱読している。もう三十冊くらい読んだ。「どうすれば競馬で勝てるか」をテーマにしたものは、競馬本の中でもっともたくさん出版されていそうなテーマだけど、著者の眠たい思考力、情報整理能力の欠如が伝わってくるものが大半で、そうでなければ常識的な当たり障りのないことをもっともらしく述べているだけだったりする。これはいいといえるような本はまだ知らない。またそんな方法があったとしても、それが本になり周知されるようになると、自動的にその方法では儲けられなくなってしまうのが競馬ルールのエレガントなところだったりする。

 ところがこの馬券偽造師の手口は、ハズレ馬券を改ざんして万馬券にしてしまう。専門技術があればこそだが、必ず儲かる方法だ。w
 馬券のインクをカッターナイフで精密に削り取り、製図用色鉛筆で精密に書き換える。30倍のルーペを使い目視で1ミリの間隔の中に64個のドットを打ち、数字一文字を数千ドットの点で表現する。すべて手作業で一日二枚製造。十年間に渡り十億以上不正に換金したという。
 ただしこの偽造テクは昭和50年代ごろ、まだ磁気カード化されていないときの話なので、今となっては同じ手は通用しない。
 不正を働く者とJRAの攻防戦が、見えないところで繰り広げられていることや、券売機ごと盗み出した犯罪グループがいたことなど、興味深い内容。

 著者は最後はお縄になって取り調べ、裁判、服役。でもその過程もまたおもしろい。本人が自白して罪を認めているのに、JRAはあまり本気で調査しないとか、刑務所では馬券偽造の技術=レタリングの技術で特別待遇されてしまうとか。
 眠たい競馬本のばかりの中で、パッと目が覚めるようにおもしろい本で、むさぼるように一気読みしてしまった。
 で、最後におまけでええっと驚いたのが、この本、最初に出版されたときは(幽体離脱入門の)アールズ出版から出ていたことだった。(なんで幻冬舎から出てるのかな?)
投稿者: 大澤義孝  | ギャンブル

くさや菌に感染したらしい

今日また、むしょうにくさやが食べたくなる。
くさや菌に感染したらしい。w
くさやの香りが台所にかすかに残っているせいか、時々幻臭のようにあのにおいが脳裏によみがえる。
するとまたむしょうに食べたくなってくる。
くさやにもたばこのようにある種の中毒性があるらしい。

投稿者: 大澤義孝  | 食べもの

2015年01月29日

たばこをやめてくさやの干物をたべた話

 たばこをやめてもうすぐ一ヶ月。なんでたばこをやめたかというと、ニコチン依存をやめてギャンブル依存(競馬)に切り替えてみることにしたのね。(笑)
 しかしたばこをやめると退屈になる。私の場合、それをまぎらわせるために食べ物から印象を取ろうとしてしまう。間食をするようになったり、食事の量が無駄に増えたりする。体の栄養としてそれを求めているわけではなく心の栄養としての印象を求めているのだ。必要以上に食べれば、無駄に太るし内臓も疲れる。食べ過ぎは色々と健康を害する。喫煙していたときの食生活のほうが健全だった。

 印象に飢えていると変わったものを食べてみたくなる。そこで前々から気になりつつも食べずにすませてきた「くさやの干物」なるものに目が行った。近所の大きな乾物屋で見つけた。真空パックされ冷凍保存で売られている。
 くさやはアジやトビウオの干物なんだけど、開きにした魚をくさや汁という調味液に漬けこんで製造され、名前のごとくとてもくさいと言われる。うんこの臭い。牛舎の臭い。ドブの臭い。不敗の進んだ生ゴミの臭い。夏の海辺で魚が腐った臭い。などと様々に形容される。「焼くと近所から苦情が来る」、「家の中に悪臭が染みつくので家の外で焼いたほうがいい」ともいわれる。なんかちょっとやばそうなイメージ。

 真空パックされた袋から取り出して、においをかいでみたけど、独特な香りだけどまあなんてことはないと私は思った。グリルにほりこんで焼く。
 するとさっそくうちの連れが「くさい!」といいはじめた。「換気扇まわしてなかったわ」といってスイッチを入れる。
 焼きすぎるとおいしくないということなので三分ほど焼いただけ。「なかなかいい香りじゃん」と私。近所から苦情が来るというほどのものではない。
 そのまま食べてみると、普通のアジの干物よりうまみがずっと強い。塩気はふつうのアジの干物より少ないくらいではなかろうか。醤油を少しかけると、うまみがさらに増幅されてとてもおいしい。醤油とはベストマッチ。ぜひかけたほうがいい。
 うんこだの牛舎だのドブなどと表現した人々の嗅覚はちょっと変なのでは、とおもったりしていると、うちの連れは「動物園の霊長類の檻の近くのにおいだ」などと言い始めた。干し草とうんこと獣臭がまざったようなにおいだと。くさやの香りは人によって受け取り方が違うみたいだ。
 お行儀わるく、クンカクンカと神経を研ぎ澄まして香りを吟味してみると、言われてみれば汚物的な悪臭というのもわからないではない香りが含まれているのは分かってきた。だけどそれはかすかにしか感じないので、解釈の違いでしかないような気もする。
 もしかしたら香りにも音のように周波数のようなものがあるのかもしれない(波動とでもいうべきか)。耳が悪いと高音が聞こえない。たとえば蝦の羽音が聞こえない人もいる。聞こえてもかすかに小さくしか聞こえない。けれど耳のよい人には当たり前のようにはっきりと聞こえる。嗅覚にもこれと似たようなことがあるのだろう。
 香りに対する感度によって、悪臭に感じたり、よい香りに感じたりする。麝香(じゃこう)やジャスミンは、原液(?)のままだとうんこのような悪臭だけど、何千倍にも希釈すると芳香を放つようになるという。しかしこのとき人間の鼻の感度にも左右されるはずで、感度がよい人には悪臭に感じられ、感度が鈍い人にはよい香りに感じられる、そういうボーダーラインがあるに違いない。くさやの香りもそういう微妙なボーダーラインに位置しているのだろう。
投稿者: 大澤義孝  | 食べもの

2015年01月06日

競馬の薬効

 競馬をやってみてある種の薬効があることが分かってきた。長い目でみれば大半の人が損をするようにできているギャンブルを、なぜ人はするのかってのが謎だったんだけど、ちょっとだけ分かった気がする。
 まず買った馬券の馬が走っている間、その馬が入賞してくれることを本気で願う。だれかの歌にあったように(中島みゆきさんだったかな?)、『宝くじを買うときは「当たるわけがない」と言いながら買う』こともできるけど、競馬の場合はそれは難しい。一回や二回はともかく、何度もレースに賭ければどんなにマイナス思考の人も本気でその馬が勝つことを願う。宝くじとちがって勝ってもささやかなものかもしれないけど、それでも本気で希望を持とうとする。そういう心理的な姿勢を、競馬は本人の意思で自発的に行わざるを得ない状況にもっていくのがポイント。それが心に効く薬効果を発揮する。賭け金の大小はあまり関係ないかもしれない。
 世の中でポジティブシンキングが盛んに宣伝され、マイナス思考はダサイとレッテルを貼られ、無理矢理ポジティブを演じようとしても、無理なものは無理でしょ。素直に認めたほうがいいと思うのよ(笑)。
 ポジティブな思考を形なりにすることはできるけど、それをしたからといってポジティブ感情が出てくることはない。本心は絶望しているのに無理やりポジティブに振る舞ったところで効かない。無理にやってる人をみると、変な宗教にはまっているような痛々さを感じてしまうものだ。そういうのはそのうちボキッと折れる。
 希望とか射幸心という感情を人工的に作り出す仕組みがギャンブルなんだけど、自然にわき出してくる希望であれ、人工的に作り出される希望であれ、実は同じ薬効をもっている。天然の生薬か、それとも化学的に合成されたほぼ同じ成分の薬かぐらいの違いなんだけど、希望が枯渇している人にはちゃんと効き目を発揮する。
 天然の希望は長く持続するかもしれないし、しないかもしれない。それは運と努力次第。人工の希望はあまり長くは続かないだろうけど、それでも数日は持続するものだし、もっともっと続きうるという伝説を打ち立てた人もいる。絶望の病に侵されて希望という脳内麻薬が枯渇している人になら特効薬。

 次に競馬は「運」というものについて考えさせてくれる。どの馬が来るか、推理することでわかる部分と、そうではない部分がある。それでもどれかを選ばないと馬券は買えない。考え抜いた決断がはずれ、一瞬のひらめきで選んだ馬が来たり、またそれらの反対もある。霊感というのもありうるものだけど、そういうのは毎回は続かないものだ。地に足のついた科学的な考え方が正しいこともある。こと未来予想においては、どのような接近の仕方であれ決定打はないものだし、それらはまったく無力というわけでもない。正確に未来を知ることができないのは宇宙法則だ。そこに無理を無理して通そうとする宇宙と人間の戦いがあり、勝つこともあれば負けることもあるが、勝ちも負けも一方だけが永遠には続かないようにできている。

 自分の想像する自分の未来は、その通りにおとずれるものだろうか。ある程度当たり、ある程度はずれているものだ。思考は、前提として与えられた情報や知識や条件に基づいて結論を出そうとする機械ともいえる。自分の未来を想像するとき、それを行う思考機能には未来を知るのに必要なすべての情報が漏れなく与えられているだろうか。そんなこたあない。考えて(思考して)煮詰まるのは、それはそのような結論しか出ない情報しか知らなかったからだ。未知や不可知の領分というのが残されているもので、それは大きさも量もまったくわからない代物だったりする。まだまだ絶望することはない。思考が敗北した先にもまだ希望は残っている。

 次にギャンブルはお金にたいする執着を軽くする。ぱっと消えたと思うと、ぱっと入ってくる。そしてまたぱっと消える。こんなものかと思う。もちろんこういう金銭感覚に塗りつぶされてしまうと問題があるけれど、お金にあまりに大きすぎる価値を投影してしまうのもよくない。心理的にそれに縛られすぎてしまうから。
 お金はその利得と制約ともにとても大きな現実をつきつけてくるものだけど、心はそれに対して自由になろうと思えばなれる。ただし「完全に」とまでいってるわけではないよ。でも少しはあるんだよ。そしてその少しの余裕が大事なの。
 余裕があるかないかは、もってるお金の量には関係がない。お金がありあまるほどたくさんあるのは、お金に余裕があるというだけのことで、お金への執着から離れる心の余裕があることとは関係ないわけ。その余裕があると、人はもっとやさしくなれるはず。

 競馬やギャンブル全般は絶望に効く薬だったんだよ。
 薬である以上、副作用や中毒についても理解しておく必要があるけどね。
投稿者: 大澤義孝  | ギャンブル