2015年04月30日

横浜名物はシウマイ弁当

 こだまの割安チケットで大阪へ。新幹線の各停で三時間四十五分かかる。しかし私が昔、東京に出てきたころの新幹線は東京・新大阪間がひかりで三時間半だったから、ずいぶん向上したとはいえる。ぜんぜんゆれなくもなった。昔はきもちわるくなるくらいゆれた。
 急ぐ旅ではないので時間は多少かかっても安い方がいいという選択をしたけど、新幹線ってもっと安くできないのかしら。便利・快適・速い……高い以外は文句はないのだが。
 うわさみたいなものだけど、新幹線運賃の原価はものすごく安いらしい。十数両編成で千人以上乗れる新幹線だが、お客が数人乗れば元がとれるという。(いくらなんでも少なすぎるような……数十人くらいかな?)

 しかし新幹線が今の半値くらいになったら、高速バスが廃業になるかもな。きっと大勢が路頭にまよう。廃棄するだけの売れ残り弁当でも1円で売るわけにはいかないとか、いろいろと大人の事情でものの値段は決まっているのだ。などといったことをビール片手に考えていた。
 うとうとして目がさめた。まだ旅半ば。そろそろ名古屋につくはず。乗り込む前に買っておいた崎陽軒のシウマイ弁当を食べる。横浜土産にはならないけど横浜名物はこれで決まり。シウマイ弁当は横浜名物としてキャラが立っている。横浜市民として横浜名物の食べ物をあげるとすれば、私はシウマイ弁当がオススメ。

 中身はシウマイ、唐揚げ、まぐろの焼き物、タケノコ、卵焼き、かまぼこ、ショウガ昆布、梅干し、杏の甘いやつ(これはデザート)。ごま塩のかかったモチモチしたごはん。
 めずらしい材料が使われているのでもないけど、さめていてもおいしくいただける、飽きのこない味付け、湿気を調節する木製の折り箱入り、食べ終わったあとの満足感、駅弁としてのバランスのよさが絶妙、駅弁としての完成の域に達した芸術品のお弁当。駅弁は旅情も大事なスパイスだからして、走ってる車内で食べることが大切。それによりこの弁当は完全となる。横浜に来たときはぜひどうぞ。
投稿者: 大澤義孝  | 食べもの

2015年04月28日

また大阪行きだ

 また大阪に帰省することになった。一週間くらい滞在する予定。複数参加のお茶会もひらけるといいんだけど、まだ予定が立てられない(たぶん難しい)。
 途中で長野に立ち寄って元次元研究会メンバーの一人を訪問しようと思っている。彼の予定をきくためにひさしぶりに電話した。
 くさやがこの世のものとは思えないほどうまくてとか、たばこやめたんだとか、歯がわやになりそうでねとか、歯周病が根治するという噂の抗生物質アジスロマイシンを飲んでさ、などという話を私はした。彼は歯科大に勤めている人なので、アジーのことを聞いてみた。
 「アジーは飲んだ直後は効いたようだけど、しばらくするとぶりかえし根治は無理みたい」と私が話したら、「医者は抗生物質使ってなんとかしようとするけど、だいたいはだめだな。俺もやったけどだめだった」という返事。やっぱだめなのか。やはり簡単に根治するなら、全世界的にそういう治療が行われているよね。
 一番よい方法は、毎日粗塩で歯を磨くことだという。これをつづけると歯が硬く丈夫になって歯周病も大幅に改善するという話。もちろん完治はしないけど歯科大仲間ではこれがいちばんよいとされてるらしい。
 そういえば鼻うがいも塩水をつかうし、足湯も塩をいれるし、金魚の病気も塩加減で治す。塩って万能薬なのかもね。
投稿者: 大澤義孝  | 健康法

2015年04月26日

タケノコうまー!

 八百屋さんでタケノコを買った。若竹煮を作った。
 タケノコはあく抜きが上手にできればとてもおいしい。あく抜きには米ぬかを入れて煮るとか、重曹を入れて煮るとかいくつか方法があるけど、タケノコを煮るためだけに米ぬかを買うのは無駄が多いし重曹は色が悪くなる。タカノツメは迷信。米ぬかも半分くらい迷信。あく抜きに限らず料理界には迷信めいた調理法がたくさん残っている。
 最近、小麦粉を溶かした水で煮る方法を知って、半信半疑で試したみたらとてもよかった。小麦粉ならいつでも常備しているので気楽だしあく抜き効果も高い。この手を知ってればタケノコは怖くない。
 たっぷりの水に小麦粉を溶かす。大鍋で煮るときは数リットルの水を使うだろう。水1リットルに対して大さじ1が目安。それから酢も水1リットルに対して大さじ1。塩も入れる。味噌汁より少しうすめの塩加減にする。タケノコを入れて水から1時間煮る。煮えたらそのまま一晩放置。(タケノコの先端はナナメにカット、たてに切り目を入れ……という定石はググッて調べて。)

 タケノコは収穫して時間がたつほどえぐみが増す。一番おいしいタケノコの食べ方は、掘ったものをその場で食べることらしい。店頭に並ぶころにはもうだいぶ劣化している。だからあく抜きが必要になる。

 瀬戸内海の小さな島に竹林をもっている親戚がいる。もう90歳代だけど大変元気。春にはうまいタケノコが食べられていいねーなんて話をしたら、タケノコ掘りはかなり危険なんだって。なぜかというとイノシシに襲われるらしい。タケノコはイノシシの大好物で、それを掘りに来る人間はエサ場を荒らす敵と認識される。自分の竹林でも思い通りにはならない。春のタケノコは甘いが自然はあまくない。
投稿者: 大澤義孝  | 食べもの

2015年04月20日

歯車から人間的な知能は生まれるだろうか?

 人工知能の話題をよく耳にする。グーグルがそれを開発したとか。やがては人間の意識や自我をコンピュータにアップロードできるようになるとか。
 それらはちょっとした話題作りのつもりなのかもしれないし、大まじめで本気の人もいるのかもしれない。

 現在の技術革新はかなり目立っているとは思うのだけど、コンピュータが意識を持つとか、それによって人工生命体ができるとか、機械の脳ができるといった話になると、ファンタジーとしてならそういうネタもいいと思うけど、SFとしては私は認めない。(私もそういう幻想を抱いてしまった時期はあっけどさ)。

 コンピュータってのはパソコンもノパソもスマフォも大型コンピュータも、ICチップでできてきて、外からみるとブラックボックスで、ぱっと見ではどういう仕組みになっているのかわからない。わからないものを前にすると、人はそこに様々な幻想を抱くものだ。黒い鏡を見つめているとヴィジョンが映るように、黒い無知の鏡には、さまざまな幻影が映る。

 その昔、機械式の手回し計算機があった。計算したい値をセットしてハンドルをぐりぐり回すと、内部の歯車が回転することで計算され答えがでる。大変高価な機械だが電卓がない時代には重宝された。
 コンピュータはこれよりさらに複雑だが、原理的には歯車などの機械部品で実現できる。最近話題の量子コンピュータは別として、普通のノイマン式コンピュータは歯車で実現可能だ。
 しかし機械式コンピュータを作ることは現実的には難しい。あまりにも部品点数が多くなりすぎるし、工作精度や物理学的な限界があるからだ。できたとしても、計算速度は遅いし毎日どこかが故障して使い物にならないだろう。
 だから昔はリレー(電磁石で開閉するスイッチ)や真空管で作った。この時代のコンピュータは毎日のように真空管が切れて故障した。
 時代が進むとトランジスタに置き換わり、さらにすすむとトランジスタは超小型化されて小さなシリコンチップの上に何十万個も実装されるようになり、今のコンピュータの姿になっている。
 けれどもコンピュータの原理は昔から変わっていない。今のコンピュータは電子的に実現された歯車で動いていると考えてさしつかえない。

 もし機械式コンピュータが実現されたとしたらどうなるだろう。スマフォですらきっと巨大なビルのような大きさになる。そのなかに精密な歯車が何億個もぎっしり詰まっていて、時計内部のようにカチカチ動いているはずだ。巨大なパイプオルガンが装備されていて、機械仕掛けで音楽を奏でたりする。アプリのソフトウェアは穴を開けた紙テープから読み込まれたりする。あらゆるデータは紙テープに開けた穴の羅列によって表現される。
 機械式スマフォ同士がネットでつながるというのは、ビルとビルの間にベルトコンベアがあって、そこに1と0を表す凸と凹の形の異なる二種類のブロックが、連続的に輸送されることでデータ通信が行われるとイメージすればいい。
 液晶ディスプレイを機械的に実現するとしたら、小さなブロックが格子状に整然と並んだパネルがあり、ブロックの裏表を機械的にひっくりかえすことで文字や絵が表現される。一昔前はこういうディスプレイが実在した。機械式なので動作が遅く、画面が書きかわるまで数十秒かかった。

 機械で表現されたコンピュータの動きは、誰の目にも追えるものとなり、根気よくおいかけていけば、だれでもそれがどのように動いているか理解できるものとなる。それはどこまでいっても金属や木やプラスチックでつくられた部品の集合体にすぎない。
 パソコンもスーパーコンピュータもこれよりもっともっと巨大なものになるけど原理は同じだ。

 さて、こういう歯車がぎっしりつめこまれたビルのような機械コンピュータが建ち並ぶ光景を想像しよう。まるで歯車でできた機械都市だ。ビルをつなぐベルトコンベアが、いそがしく凸凹ブロックを輸送しデータ通信をしている。これはインターネットの寓意といってもよい。

 こういう歯車の機械(コンピュータ)が、人間のような意識を持つことはあると思えるか?
 それは脳を代替するものとなりうるか?
 これは人工生命とよべるものになりうるか?
 歯車コンピュータが相互に連結されネットワークを形成したからといって、なにか人間的・生命的なミラクルな力がそこに宿ると思えるか?

 これらの問いへの答えは、コンピュータがシリコンで超小型に作られていようと変わらない。同じことだ。
投稿者: 大澤義孝  | 哲学

2015年04月18日

水を運ぶ酒屋の謎

 お茶会をするいつもの喫茶店に行く途中にスーパーのイオンがある。そのそばに酒屋があるのだが、その店先に20個くらい大量に灯油のポリタンクが並んでいるのをこれまでに何度も目にしていた。店の従業員がそれに水を入れてどこかに運んでいくのだった。酒屋がなぜ水を扱っているのか永いこと疑問に思っていた。
 酒屋が酒瓶をたくさん運ぶのはわかるけど、水の入ったポリタンクを大量に運ぶのは解せない。店の敷地から売り物になるような美味しいわき水でも出ているのだろうか。造り酒屋なら酒を仕込むのにおいしい水が欠かせない。けれどこの酒屋、品揃えは豊富だけどただの小売店だし、汲んでいる水は蛇口から出てくるごく普通の水道水みたいだ。いったいどういうことなのだろう。
 気にはなるものの、タイミングがあわないと聞きづらいもので、なかなかよい機会にめぐまれなかった。今日はちょうど水くみの現場に出くわしたので、ここぞとばかりに訊いてみた。

 横浜駅の近く、川沿いの路上に屋台の飲み屋がたくさん並んでいる場所があるのだけど、その場所には水道がない。(行政上の理由だと思うけど)そこに新しく水道を引くこともできないらしい。
 しかし料理を作ったり皿を洗うのに水は必須。つまりそこの屋台に酒を納品するとき、水も一緒にもっていく約束を交わしているんだって。事情を聞いて納得。長年の謎がやっと解けた。すっきりした。
投稿者: 大澤義孝  | 日記

2015年04月17日

Apple Watchはなにをめざしてるのだろう

 Apple Watch発売のニュースを見た。これをつかってムーンボイドを知らせる腕時計アプリを作ることができるはず。(だれか作ってw)
 ただAppleWatchはバッテリーが24時間持たない。24時間すら時を刻めない時計なんて、時計じゃないと思うんだけど……。
 ずいぶん前にボイド時計をマイコンで作ったとき、時計に求められる機能について色々と考えさせられた。
市販の時計をみると、正確な時を表示するのが第一で、複雑な機能をもった時計はほとんど無い。高次機能の搭載よりも、高精度化と省エネ化に技術が注ぎ込まれている。目覚まし時計は単三電池で1年以上動くし、腕時計は太陽電池で動作したりする。これって自分で作ってみるとわかるけどすごいハイテクだったりする。時計を作ることは簡単でも、省エネ時計をつくるのはとても難しいことだ。
 時計は休み無く動きつづける必要がある。だから高次機能の追求よりも、ランニングコストを下げることや、長年壊れない堅牢性、正確さ(わずかでも狂う時計は、長く動けば大きく狂う)が優先的に求められる。
機械式時計の時代から何百年も追求されつづけてきたことだし、今も追求されつづけている。
 天体位置、高度や方位、気圧や気温、体温などの表示といった、高次機能を搭載した時計は、これまでもあったけど、あまり広くは普及しなかった。作れなかったわけではなく、あまり必要とされなかった。時計は時さえわかれば、ほぼ充分必要性を満たすものなのだ。
 AppleWatchは時計業界が長年かけて極めてきた省エネをばっさり捨て、時計業界があまり重要視しなかった高次機能の発展をもくろむ商品というわけ。腕時計としてみるとほとんど価値がないように思える。アップル社はなにを目指しているのかしら。どうなっていくのかしばらく様子を観察してみたい。
投稿者: 大澤義孝  | コンピュータ

2015年04月15日

人は仮想現実の中では祈らない

 「『死ぬことが人生の終わりではないインディアンの生き方』加藤諦三/著」という本を読んだ。
 アメリカインディアンは毎日太陽への祈りをかかさず行っていて、自然との一体感をもって生きているという。人間は自然の一部だ。だから死んだあと、母なる自然に戻っていくということをインディアンは素直に受け入れる。だから彼らは死を恐れていない。動物を狩り、その命を取って自らの命をつないだように、自分に死が訪れたときは同様に恐れなくその身を母なる自然に返す。彼らは自然と結びついた生き方をしている。

 ところで、バトラーは「魔法修行」の中で一日三度の日拝を訓練メニューに加えている。朝、昼、夕と決まった時刻に祈りをささげるメソッドで、朝の祈りの句は次の通り。
 「御身、永遠なる霊界の太陽よ。今、東天に昇らんとするは目にみえる御身の象徴である。朝の宿りから御身に帰依し奉る」。
 昼も夕もだいたい似たような内容だ。この祈りの句はエホバやキリストやアラーなどの人格的な神ではなく、霊界の太陽に祈りをささげている。霊界の太陽とは、あらゆるものは自分の意識の中にあるという前提の元で、意識の中にある太陽のことと考えればよいと思う。東から昇りつつある物質界の太陽は、霊界の太陽の象徴である。
 このメソッドは「魔法修行」の中で、唯一宗教的なものともいえて、私は自分流にアレンジした幽体離脱訓練法を紹介する上で最後まで扱いに迷った。当時オウムの事件が終わったあとで、精神世界や宗教的なものに対する風当たりは厳しいものに変わっていた。だから一日三度手を叩く(これはシュタイナーの意志の行と呼ばれている)とか、宗教的ではないやり方にかえて祈りについてはあまり触れないことにしたのだが、それは間違いだったと思う。

 「太陽に帰依する」というのは、自然界=森羅万象=宇宙と一体となって生きるということでインディアンのそれと同じ自然崇拝であり、西洋魔術とはそういうものだ。
 日拝はバトラーの魔法に対する精神的姿勢を表しているのだが、魔法のメソッドである幽体離脱やダークミラーとは技術であって、精神的姿勢には関係がないことにもできる。しかしそのように技術だけ取り出しても不毛なものになってしまう。どのような技術もその運用哲学が無ければ不毛になるからだ。

 加藤さんは著書の中で「人は仮想現実の中では祈らない。仮想現実と現実の違いはそこにある」と述べている。ネットロープレの世界で冒険する人々がたくさんいる。彼らはその人工的に作り出された美しいファンタジックな異界の中で、夕陽を見たり星を見たりするかもしれない。しかしそれによって感動するだろうか。フェイクの自然は癒やしを与えてくれるだろうか。自然の中で朝陽や夕陽を見て感動したり、星をながめ宇宙とのつながりを感じたり、宗教的畏敬の念を抱いたりするように、ネットロープレの中の人工環境に同様の感情をもつことがあるだろうか。あるわけがない。

 ではアストラル界にある自然はどうだろう。私はこれまで幽体離脱という現象を説明するとき仮想現実の比喩を使ったことがある。肉体を離れ別世界に行く。アストラル界に行く。その世界で五感と自我をもって行動できる。これは仮想現実のように解せる。では幽体離脱中に祈ることはあるだろうか。アストラル界に広がる野山や海などの自然界や、そこに輝く太陽を見て、そこにいる人や動物や植物を見て、触れて、畏敬の感情や祈りの感情(宗教的感情)が想起されることはあるだろうか。
 私はこれについては素直に「有る」と言える。アストラル界が人工物か自然に属する物かどちらかといえば、間違いなく自然に属するものだ。それは決して仮想現実ではない。アストラル界で自分の思念が反映され、内在的な願望が具現化したりすることも含め、それは人工的なものではなく、自然なるものだし超自然的なものでもある。それは真剣な祈りの対象になりうる。だからこそ体脱した者は、アストラル界の光景を見て感動するのだ。その感動は仮想現実のゲームで得られる感動とは異質なものだ。

 自然界とのつながりを拒否した信念体系の元で行われる幽体離脱は、唯物論的な世界観になる。脳という機械が作り出す幻覚だとか、脳の誤作動だとか、魂もなければ霊もない、死ねばただ塵に戻るだけ。精神も意識も脳が作り出している。人間はロボット、脳はコンピュータというような考えに支配されてしまう。そこに祈りは無い。人は祈らなくなる。祈りという感情を忘れる。宗教感情を忘れる。そして自然と切り離されて苦しむ。

 「インディアンの生き方」本に、「我々は肉体をもった魂であって、魂をもった肉体ではない」という一節があるのだが、今や「魂を持った肉体」どころか、「魂すら持たない機械」になりはてた人々が増えている。
 唯物論で宇宙を理解することは、宇宙は機械であると理解することと同義で、機械とは人間が自然を理解し構造を見抜いた上で、自然界の模倣として作り出したものにすぎない。人間は物事の仕組みを理解すると、それを機械化したがる。しかしそれはどこまでいっても、荒削りな仮想的モデルを作っているにすぎない。そのモデルを作るときに扱いきれず切り捨てた未知なる要素が、必ず背後に取り残されている。
 そういう現実を忘れて、人間を純粋に機械的なものだと見なす考え方は、自分の頭の中の機械的宇宙モデルだけで作られた仮想現実の中に自閉していることを意味する。多分、そういう人は苦しいと思う。その苦しさは、己のその信念が間違っていることをその人に教え、罰しているのだ。
投稿者: 大澤義孝  | 哲学

2015年04月06日

ありのままの

d65aede4.jpg やる気が出ない。なんかちょっとウツっぽい。50代に突入したというのもあるかもしれない。心の休ませ方について書かれた加藤諦三さんの本を何冊が読んでみた。癒やしといえばスピリチュアルを連想しがちだけど、加藤さんのは心理学寄り。実に鋭い観察眼をもって書かれているし、キレのある思考がすばらしい。
 その本の中に「明日で死ぬとしたらなにをするか?」という問いがあって、明日までとするとほとんど時間はないってことだから、旅行とか昔の恋人や友に会うとか人生でやり残したことをするとか、そういうのは多分無理だと思う。ドタバタあせって時間切れになるのが関の山だからそういうことはしない。
 やっぱたばこを吸うかなぁ(笑)。今年にはいってからたばこをやめているけど、元気がでないのはたばこが無いことも関係していると思う。たばこには数多くの多大なデメリットがついてくる。しかし「百害あって一利ある」のがたばこ。その一利が実は大きい。たばこ好きはその一利を大きく評価する。とはいえやっぱり害はあるのよね。現在は害のほうが大きくなったと判断してやめたんだけど、明日で死ぬなら吸うだろうな。

 もう一つ、「言いたいことを言えないとか、怒りを表現する手段を持たないと、心が傷つき病的な状態に追い込まれてしまう」というようなことが書かれていて、そうだよなぁと納得した。
 つい先日、初代のスタートレックでカーク船長を演じていた、ウィリアム・シャトナーが、ファンの前で話したときの様子をまとめた画像を見たのよ。(写真をみるとまだ老齢には達していない時のようなので、講演はかなり昔のことだろう)。私も若いころスタートレックは好きだったけどさ、ひどいよねぇこれは、いくらなんでも。最初はコラでつくられたネタではないかと思ったんだけど、どうやら実話だったらしい(※)。映画「ギャラクシー・トレック」に出てきた俳優たちのように、もう少し愛してあげることはできなかったものだろうか。
 でもこういう夢をぶち壊しをしたくなる気持ちもわかる。ファンは物語から受けた幻想を彼に投影しまくるけど、本人は製作現場にいたんだから裏も表も知りつくしているわけで、おもしろくもなんともない。だんだん投影されることに嫌気がさしてくるんだろうな。最初はがまんしているけれど、だんだんつかれてくる。憎しみをもつようになるかもしれない。ジョークのつもりだろうけど、やはりファンへの憎しみが含まれているのではないかしら。でもそうなのであれば、ありていにファンにぶちまけた彼の態度は、彼の精神衛生にはよさそうだ。でもいつまでも夢をみさせてあげるのが役者じゃないのかとも思う。高倉健はそれを貫いた役者だったよね。(まあ、ポリシーは皆違うから、どれが正しいってこともないのだけど)。
 オカルト(占いも含む)も、スタートレックのような「おはなし」とかなり近い層に位置していて、私も時々、ウィリアム・シャトナーのようにぶちこわしたい衝動にかられる。しかしオカルトの場合、もっと微妙なんだよね。オカルトもおはなしだけど、ちょっとは本当もまざっていたりする。嘘と本当が重なり合っているんだけど、それをばっさりと切ってしまうという扱い方は、やっぱり間違っているような気もするわけだ。それでいつも奥歯にものがはさまったような言い方になっちゃうわけだけど、最近奥歯を一本失ったしなぁ、もう、はさみようもないのかも。

 ※この記事を書いてから時間がたち、2016年2月になって、実は実話ではなくてお笑い番組の企画だったらしいことを知った。シャトナーは本音で言ったわけじゃなかった、ということになったけど、いやいや本音なんてほんとはわからないところにしまってあるものだしねえ。
投稿者: 大澤義孝  | コメント(1)  | アニメや映画