2015年05月31日

関内のラーメン二郎

 ラーメン二郎を最後に食べたのは、まだ目黒に住んでいたころで、今から十年以上前のことだ。当時も並ばないと入れない店だった。記憶ではチャーシューはいまいちだけど、スープはコンソメ風味でなかなかおいしいラーメンだと記憶していた。しかしこの記憶、かなりいいかげんなものだったみたいだ。
 ひさしぶりに食べたくなって、関内の二郎に足を伸ばした。30分並らばされたあと食券を買う。大と小のサイズがあり、もちろん『小サイズ』を買う。ついでに味たまごもつける。そして出てきたラーメンを食べ始めた。もやしがてんこ盛りで、それがちょうどよいゆで加減でおいしい。もやしをほぼたいらげて麺を食べ始めた。すると食べても食べても麺がなくならない。ラーメン鉢の底から麺が湧いてるんじゃないかと思えるほど、いくら食ってもなくならない。しまいに味なんかどうでもよくなって、次々と湧いてくる麺を負けじと食べ続けるんだけどなんでだろ、麺が無くならないんだw。
 私はどんな飯屋に入っても残すことはめったに無いんだけど、今日の二郎ラーメンは完食できなかった。歳を感じた。昼に食ってもう夕食時もすぎたけど未だにおなかいっぱい。今から思い返すと、行列にならんでいた大半が学生っぽい若い人々だった。そういう人向けのラーメンなんだろうな。
投稿者: 大澤義孝  | 食べもの

オクターブの法則と読書

 昨日のお茶会には「蛇は再び立ち上がる」の著者の蛇原氏が来て、ぜんぜん著書とは関係ないけどw、株式投資の厳しい世界を教えてくれた。上がり下がりの額が大きく、百万単位の資金があっというまに三分の一になったりする。競馬でちょと負けたくらいたかがしれている。FXはすざまじくて、資金が30万に増えたと喜んだもつかの間、気がつくとマイナス9000万の借金という人もいるという。こわいわー。
 それからグルジェフの言う「三の法則・七の法則」についての説明をリクエストしていた人がいたので「奇跡を求めて」を読み返して整理して臨んだんだけど、リクエストした本人は本すら読んでいなかった。読んでも眠たくなるとかいって。がっかりだよ。相手がもってる知識に応じて、話もできるわけだからね。
 もうずいぶん前のことだけど、X氏にそういうことをぐちってた人がいた。「集まりを開いているけど、だれも本を読もうとしない。なんなのよ、これは」と。そしたらX氏いわく「千人に一人くらいしか、本を読む人はいないから」とさめた返事だった。
 私にも読書が苦手な時代があった。読むためのコツは色々あるけど、読書は結局慣れだと思う。無理やりでもよむしかない。
 オクターブの法則(七の法則)が説いているのは、なんらかの計画をスタートさせて、物事が進展し完遂に至るまでに、その計画がくじかれてしまう地点が二カ所あるということだ。その地点をインターバルと呼ぶ。
 たとえば本が一冊あり読書を始めると、すぐに読むのを止めたくなる地点が来る。そこをなんとか乗り切ると、しばらくは順調に読書が進むが、終盤になってまた読みたくなくなる地点がやってくる。それも乗り切れば完読できるということ。
 インターバルは物事の進展が阻害される要注意ポイントなんだけど、そこを乗り切るためには普通は自分の意識的な努力によって力を生み出すしか方法はない。時として山をも動かすような決意と努力が必要なこともあって、読書が苦手という人はつまりそういうことで、インターバル超えがあまりに大変だと感じるから止めてしまうわけ。そしてこれまで通り知識を知らないままの生活が続く。そして無意識に自分で規定してしまった限界の枠から出られない。
 ではどうすりゃいいのっていうと、無理やりでも読めばいいんだよ。読書ならその程度の努力で済んでしまう。(文盲だったりすると、話はもっともっと過酷になるけど、普通の人は問題ないはず)。
 しかしそれでも本を自発的に読む人が千人に一人しかいないとすると、それはいかに人が変わることが難しいか、人の生は決定論でできていて、めったなことでは変わらないことを証明しているとはいえまいか。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2015年05月27日

ブログがあまりに重いので

 このブログにアクセスすると、画面が表示されるまで三十秒以上待たされることに気づいた。はじめは混雑しているのだろうくらいに思っていたが、時間帯をかえてアクセスしてみても大差がない。一週間以上こんな感じだ。三十秒も待ってくれる読者はいない。
 調べてみるとアマゾンのバナー表示が極端に遅くなっていて、それが全体の足をひっぱっていた。取り外すとすぐに改善した。
投稿者: 大澤義孝  | コンピュータ

2015年05月26日

臭豆腐を食べてみた

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 中華街の状元郷という店で昼食。とてつもなく臭いと話題の臭豆腐なるものをまえまえから食べてみたくて、この店で出していることを事前に調べてあった。台湾料理の店で飯屋というよりは飲み屋系。深夜まで営業している。酒のつまみの珍味メニューが充実している。
 臭豆腐は豆腐を納豆と共に発酵させたり、あるいは葉物野菜を発酵させた漬け物の汁に豆腐をつけ込んだりしたあと、油で揚げて作る。
 臭豆腐はくさやのにおいにそっくりだった。目隠しされてにおいだけで判断させられたら多分くさやと区別つかないかもしれない。早い話がくさやフレーバーの厚揚げ。ただしくさやほどにおいは強くはない。タマネギやニンニクや煮きった酒が入っているっぽい甘いタレをつけて食べる。酢漬けの野菜が付け合わせについていてそれがよく合う。
 味は厚揚げだな。かすかに酸味がある。おいしいけどくさやのような脳汁あふれ出すようなうまみはない。そりゃ豆腐だから、そんなとてつもない味に変容したりはしない。値段は600円。わざわざ臭豆腐のために二回目を食べにくることはないな。一回で充分。だけどこの店の数々の珍味にはまだ興味を引かれるものが残っている。またそのうち……。
投稿者: 大澤義孝  | 食べもの

2015年05月24日

幽界でたばこを吸った

 今日、めずらしく幽体離脱した。アストラル界で無性にたばこが吸いたかった。たばこ吸いたいなぁと思っているとどこかのコンビニ店内に移動してレジの前に立っていた。目の前には行きつけの喫茶店の店長がいて、こっちの顔をみるなり自分のたばこを一本とりだすと笑顔で私にさしだした。銘柄はハイライトだった。
 だけどもたばこは歯に悪いってことでやめたのだし、数多くのデメリットが復活するし……、としばらくためらってしまったが、「あっ、そうか。ここは幽界だから無問題だわ」と正気にかえった。
 たばをうけとり、ライターも借りて火をつけた。ライターはターボライターだった。
 一服して煙りをはき出す。だけど煙はまったく出ないようだ。たばこが赤く燃えているのは見えるのだけど煙は見えない。だけどすぐにたばこを吸ったときの、とくに長いこと禁煙したあとに吸ったときの、すこしハイになる感覚、気分が軽くなる感覚がやってきた。幽界でもたばこの薬理効果はちゃんと発現する。これは前々から知っていたことで、たばこに限らずアルコールやほかの薬でも効果がある。
 たばこを吸いながら町を散歩。ひさしぶりに空を飛んでみた。ちゃんと上空から家々の屋根をながめているようにみえるんだけど、はたしてこれは現実世界の家の屋根と一致するんだろうかなどと考える。似ているぶぶんもあるし、似ても似つかない部分もある。
 しばらく飛行していると、町が廃墟に変わり、ジャングルに覆われてしまった。なにごとかと思い地面に降りた。日本のどこかの町だけど、人はいなくて廃墟になっている。学校校舎のような建物がそばにあり中をのぞいてみるとマンモスがいた。本当のマンモスがどんな姿なのか知らないけど、幽界でみたマンモスは背がやけに高かった。たばこの葉の色をした、つやの無いボサボサの毛で覆われていて長い牙があった。それから臭い。動作はのんびりしていて、あまり危険そうではないんだけど、徐々に距離をつめてくるし犬がなつくような感じでもないので私は逃げた。
投稿者: 大澤義孝  | 幽体離脱入門

2015年05月16日

だし道楽

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 大阪で見つけたうどんだしの自販機。水で薄めてすぐにつかえる関西風の甘めのうどんだし。ペットボトルの中に焼いた飛び魚の煮干し(焼きあご)とだし昆布が浸かっていて、自販機の前を通りかかるとそれが目を引く。おいしそうに見えるし味も期待を裏切らないので、旅のおみやげにすると喜ばれる(ただしちょっと重たいのが難点かも)。
 しかしこれは大阪のものではなく広島発祥の商品。本社は広島で関西圏まで自販機による販売網がひろがっているけど、まだ神奈川や関東では見かけない。
 私が自販機の前まで買いに行くと、写真のおばさんが一本買ってはしげしげとボトルをながめ自転車かごにしまう。そしてまた一本買っては……を繰り返す。いつまでたっても終わらないので、しばしその場を離れて15分。戻ってきたときやっと最後の一本を買い終えておばさんは立ち去った。いったい何本買いだめしたのかしら。
投稿者: 大澤義孝  | 食べもの

2015年05月15日

5月30日土曜日にお茶会します

ひさしぶりになってしまいましたが毎回恒例のオカルトお茶会です。
5月30日土曜日・午後1時半くらいから横浜近郊の喫茶店で。
幽体離脱やオカルト全般や占いなどの雑談会です。
幽体離脱の練習法で質問がある方なんかもどうぞ。
いつもは喫茶店にドトールを使っていますが、最近混雑ぎみでさわがしいので、参加者が多いときは場所を変える予定です。
参加費は無料。ただしお茶代は各自持ちで。
参加ご希望の方はoobe@tetramorph.toまでメールください。
投稿者: 大澤義孝  | 日記

2015年05月12日

また人間やるのってうざくね?

 ある人がこんなことをいった。
 「今度はもっともっと好条件な環境に転生させてもらえるとしても、やっぱりもう嫌だなぁ」
 この世というのはかなり底意地悪くできていて、お金持ちの家とか、立派な両親の家とか、世間でいうところの「よい環境」に生まれても、そう簡単には幸せになれないムリゲー。幸せも不幸もある一時の状態にすぎず、アップダウンは避けられず、それを楽しめるか、もういやだと思うかだが、最後にはだいたい「もう嫌」というほうに傾き、東洋では出家して解脱をめざそうとなるのが、おきまりのコースなのかもしれない。ところで転生ってあるのだろうか。

 たとえばヒンズー教やチベット密教などは、再びこの世に転生するという。動物に転生したり、徳の高い僧侶に転生したりするけど、こういう世界観ってうんざりするよねぇ。「また人間させられるの?」などと思ってしまう。
 知性なんか低いほうが幸せ指数は高かったりして、動物や魚に転生するほうが人間よりましなんじゃないかと思えたりもする。昔、タロット研究会に来たある女の子は石ころに転生したいといってたっけ。この達観はすごいかも。

 解脱した元修道女、バーナーデッド・ロバーツにいわせると死後の先には輝かしい来世があるらしい。けれどヒンズー教がいってるような、この世に再び転生するわけじゃない。来世では人間をはるかに超えた別種の生命体の一部になるという。なるほど今生の繰り返しではない、別種の生というのなら、またやってみてもいいような気がする。しかしそれは解脱した彼女の来世は多分そうなのだろうというだけで、そうじゃない普通の人々はこの世に再び転生するのかもしれない。解脱者でも異なる二つの人生を生き、双方を比較できるわけではないから、解脱者の来世とそうじゃないものの来世の違いがわかるなんてことはない。

 この世で自分の本当の願い実現する生き方をしないと、つまり自分を偽ることなく、悔いの無い人生を生きなければ、死にきることはできないというようなことが書かれていた本がある。これは言いたいことはわかるけど、ただの信念だと思う。
 地球上には生まれてこないほうがよかったと思えるようなひどい国がある。飢餓と暴力と病気が当たり前の世界で、生き抜くだけで精一杯で、夢だの自己実現だのいってる余裕なんかまったくない人生もある。そういう境遇に生まれた人は、悔いの無い人生など望めず、後悔と恨みの中で死んでいくのだろうか。
 自分がアナハタショックで死ぬと思ったときのことを思い返すと、ちがうような気がする。本当にもうだめってなると、ああしときゃよかった、あれをやり残したとか、そういう感情なんてわいてこないんだよ。この世と自分をつないでいた執着が強制解除されて世界との同一化がはずれてしまう。(まぁ死ななかったんだけどね)。

 ダンテス・ダイジという覚者がいた。詩のような本を何冊か残し若くして亡くなった。うろ覚えだけど彼の言葉の中でこんなのがある。
 「死ぬとき君は気づくだろう。なにもかもがよいということを」
 いろいろと思い残すことがあろうと、これじゃない感ただよう人生だったとしても、みんなそれでよかったんだと思えるってことじゃないのかな。
 アナハタショックのときのことを思い返すとこれに近い。とくに後悔は起きない。

 日本人のお葬式でおなじみの般若心経。この世のありとあらゆるものには実体がない。意識にすら実体はない。だからそういう幻に執着することをやめると、ニルバーナに入れるという説法が書かれている。(ところでみんなこれ信じてるのかな?)。

 この世のものには実体が無いのだとして、そこから考えてみると、この世って自分の死後も残るものなのかしら。自分が死んだあと、自分の残した子供たちは生き続けるのかしら。自分の残したお墓も残るのかしら。普通は「もちろんそうに決まっている」と思っている。しかしそれを証明する根拠はなにもない。
 「エジプトのピラミッドは残っているじゃないか。死んだあとも自分のなしたことは残るに決まっている」と普通はそう考える。だけど「20分前に世界は創造された」というトンデモ理論に対して、科学は反証できない。
 エジプトのピラミッドを残しファラオが死んだことは知ってるけど、その記憶も含め、今自分が知っている知識すべては20分前にまとめて注入され、仮象現実の中に送り込まれたのかもしれない。といわれると、科学では反論不能なのだという(笑)。

 故・池田晶子さんが言うように自分が知っているのは他人の死だけだ。人は自分の死についてはなにも知らない。
 もしこの世が夢だとすると、そこから目がさめると、残した子供も墓も夢だったということになり、きれいさっぱり無くなってしまったりして。大金かけて墓を建てたつもりだったのに、あれって夢の中のできごとだったんだ……てな顛末。

 幽体離脱してアストラル界でモンスターと戦ったりおねーちゃんと抱き合っても、目がさめたらなんにも残っていない。もう一度幽体離脱したら、モンスターもおねーちゃんもそこに存在していたりもする。けど肉体に戻ればうそみたいに消えてしまう。この世もその程度のものかもしれないわけ。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2015年05月07日

大阪の雑感

 東京のある女性によると大阪の女性の服は個性的だという。服には無頓着なので気にもとめていなかったんだけど、注意をむけて観察してみた。いわれてみると、体のラインがよくわかる服、胸もとがひらいている服、けばい服などが多めかも。つまり開放的ということだらうか。

 中学のころの友人と酒を飲んだ。おたがいよくぞ50歳まで生きぬいたものだと運のよさをたたえあった。二三年に一度会う程度なんだけど、会うとかならずバイオレンスな話しを聞かされる。今回は電車の中にいたマナーの悪い不埒な輩を首をしめて成敗してやった話しだった。
 大阪の地下鉄には、わざと大マタをひらいてスペースを広く占有して乗ろうとする人がいる。人が乗ってきても詰めようとしない。

 大阪では行列に並ぶとき注意が必要だ。前の人と隙間があいていたり、よそ見をしているとすかさず割り込まれる。また順番が不明瞭な行列なのによくわからないまま、人の順番を守らないと「ちょいとあんた、ぬかさんといてーなっ!」とどやされる。見知らぬ人との会話はけんか腰が基本だ。

 中国人の数が増えたような気がする。前はこんなにいなかったぞ。

 実家近所の吉野屋が24時間営業をやめ、夜には閉店するようになっていた。「うまいうまいご飯」と看板に書かれているのに、まずいまずいご飯を出してくる定食屋があったけどつぶれていた。おかずはおいしかったんだけどね。ホットモットも消えていた。街の様子を観察したところ、なんとなくだけど、景気は悪くなっているみたいだ。

 大阪のスーパーには「はも」が並ぶ。初夏からでまわりはじめる魚で、骨が無数にある。そのままでは骨だらけで食べられないので、包丁で一ミリ間隔くらいの等間隔で身に切れ目を入れていく「骨切り」という処理をしないとたべられない。関東ではまずおめにかかれない魚だが、大阪では骨切り処理された生ものがリーズナブルな価格で並ぶ。うなぎの半額くらいのお値段。さっと湯通しして酢味噌をつけて食べてみたらウマー。

 大阪城のそばを通りかかった。ガキのころ、一度行ったような気がするけど、どんなだったかと思い、ぶらりと中に入ってみた。城は近年になってから再建されたものなので、あまり値打ちはないと思う。お堀と石垣がお値打ちなのかな。よくわからんけど。
 ここにはやたらと外国人が多かったが、日本の城って観光としてはぜんぜんおもしろい場所じゃないよね。どこいってもそれは同じ。

 大阪に来てから鼻の調子がわるい。アレルギーの症状だ。横浜では花粉の季節はすぎていたし。大阪の空気になにか原因かあるらしい。中国からくるスモッグとかね。

 大阪都構想イエス・ノーを決める住民投票を前に、街では二派勢力の広報活動がとても活発だ。同じ場所でイエスを叫ぶ団体とノーを叫ぶ団体が演説してる。しかしどっちの主張を聞いても、それが本当のことなのかどうか判断できるだけの知識をもってないのでよくわからん。その知識を得るのは、かなり勉強しなきゃいけないし、そうしたところでやっぱりわからないものだと思う。だってそれは(よりよくなる)未来を予想することだから、そんなに正確に予測できるような性質ではない。当て物にちかい。
投稿者: 大澤義孝  | 日記

2015年05月03日

そこに行っても一秒たりとて生存できない、超過酷な宇宙的自然に魅了される

7月には探査機が冥王星に到着して、冥王星の素顔を撮影し写真を送ってくる。
冥王星を間近で撮影した写真はまだ存在しない。他の惑星の姿はどれも高解像度で撮影されたものがあるけど、冥王星だけはあいかわらず「点」のまま。ハッブル宇宙望遠鏡でもすばる望遠鏡でも遠すぎて点にしか写らない星。冥王星探査機ニュー・ホライズンズが打ち上げられたのは2006年。史上もっとも高速で飛んでる探査機だけど、冥王星は遠くて9年もかかった。ほんとに長かった。やっと冥王星の姿がおがめると思うと感無量だ。もし明日で死ぬことになったとしたら、ホライズンズが撮影した冥王星を見られなかったことを無念に思うに違いない。

 私は子供のころから、金星や火星に行ったらどんな世界なんだろうとか、理科図鑑をみながらわくわくしてたんだけど、今でも探査機がどこかの星に降り立ったというと、かじりついて見てしまう。
 春になると地表からCO2が吹き出し土煙の柱が吹き上がる火星。液化ガス(百円ライターの中に入っているやつね)の雨が降り氷の火山が噴火するタイタン。気温400度90気圧で超臨界CO2の大気が山々を溶かして丸くしてしまう金星。絶対零度の雪原で小さな異常なまでに明るい星(太陽)が一つ輝いている冥王星。
 ガキのころそんな太陽系惑星の話を友達にはなしてもだれも共感しなかった。実はこういうことをおもしろがる人はきわめて少数派なのかもしれない。これはフェチに近いものなのかもしれない。
投稿者: 大澤義孝  | 日記

2015年05月01日

王将のギョウザ

 実家の近所に私が小学生のときから店を出している王将のギョウザを食べた。これは私のソウルフードで、大阪に来ると食べたくなる。昔は店員が手作業でせっせと餃子を作っていたのをおもいだす。山積みされた餃子のタネをすごいスピードで包んでいくのね。まさに職人技だった。今は工場で一括生産らしいけど。

 土地のものを食べると、そこの土地にコネクトする。旅行にいったときその土地に降り立ったら、儀式としてそこの地元のものを食べる。土地神様と繋がるための儀式だから、そこの土地固有の食べ物ものがいい。高級品である必要はない。駅前の立ち食い蕎麦でもいいわけ。その土地でとれた素朴なものを食べる。全国どこにでもあるファーストフードやコンビニ食はこの趣旨に反する。(王将も全国規模の店になりつつあるようだけど、まあ大阪王将は大阪の味ということでいいじゃん)。
 すると、そのあと不思議と旅がたのしくなる。つまらないトラブルにまきこまれることもなくなる。おいしいお店がみつかったり、隠れた名所をみつけたり、土地と自然が人々が自分にほほえんでくれる。ちょっとしたおまじないだけど私はかならずやる。

 王将はあるときからブランド名で争いがおきて「大阪王将」と「餃子の王将」の二派にわかれた。詳しくはおぼえてないけど親族経営での喧嘩が原因だっけか。実家近所の王将は大阪王将だったようだ。それまでは二派あることもしらず「王将」としかおもってなかった。
 餃子の王将は横浜桜木町や関東圏でもよくみかけるのだけど、そこの餃子をたべると「これじゃない感」がする。そんなに大きな違いではないんだけど、やっぱりガキのころに刷り込まれてるせいか大阪王将のほうがおいしく感じる。なんかこう、、、香りと歯触りがいい。
投稿者: 大澤義孝  | 食べもの