2015年01月06日

競馬の薬効

 競馬をやってみてある種の薬効があることが分かってきた。長い目でみれば大半の人が損をするようにできているギャンブルを、なぜ人はするのかってのが謎だったんだけど、ちょっとだけ分かった気がする。
 まず買った馬券の馬が走っている間、その馬が入賞してくれることを本気で願う。だれかの歌にあったように(中島みゆきさんだったかな?)、『宝くじを買うときは「当たるわけがない」と言いながら買う』こともできるけど、競馬の場合はそれは難しい。一回や二回はともかく、何度もレースに賭ければどんなにマイナス思考の人も本気でその馬が勝つことを願う。宝くじとちがって勝ってもささやかなものかもしれないけど、それでも本気で希望を持とうとする。そういう心理的な姿勢を、競馬は本人の意思で自発的に行わざるを得ない状況にもっていくのがポイント。それが心に効く薬効果を発揮する。賭け金の大小はあまり関係ないかもしれない。
 世の中でポジティブシンキングが盛んに宣伝され、マイナス思考はダサイとレッテルを貼られ、無理矢理ポジティブを演じようとしても、無理なものは無理でしょ。素直に認めたほうがいいと思うのよ(笑)。
 ポジティブな思考を形なりにすることはできるけど、それをしたからといってポジティブ感情が出てくることはない。本心は絶望しているのに無理やりポジティブに振る舞ったところで効かない。無理にやってる人をみると、変な宗教にはまっているような痛々さを感じてしまうものだ。そういうのはそのうちボキッと折れる。
 希望とか射幸心という感情を人工的に作り出す仕組みがギャンブルなんだけど、自然にわき出してくる希望であれ、人工的に作り出される希望であれ、実は同じ薬効をもっている。天然の生薬か、それとも化学的に合成されたほぼ同じ成分の薬かぐらいの違いなんだけど、希望が枯渇している人にはちゃんと効き目を発揮する。
 天然の希望は長く持続するかもしれないし、しないかもしれない。それは運と努力次第。人工の希望はあまり長くは続かないだろうけど、それでも数日は持続するものだし、もっともっと続きうるという伝説を打ち立てた人もいる。絶望の病に侵されて希望という脳内麻薬が枯渇している人になら特効薬。

 次に競馬は「運」というものについて考えさせてくれる。どの馬が来るか、推理することでわかる部分と、そうではない部分がある。それでもどれかを選ばないと馬券は買えない。考え抜いた決断がはずれ、一瞬のひらめきで選んだ馬が来たり、またそれらの反対もある。霊感というのもありうるものだけど、そういうのは毎回は続かないものだ。地に足のついた科学的な考え方が正しいこともある。こと未来予想においては、どのような接近の仕方であれ決定打はないものだし、それらはまったく無力というわけでもない。正確に未来を知ることができないのは宇宙法則だ。そこに無理を無理して通そうとする宇宙と人間の戦いがあり、勝つこともあれば負けることもあるが、勝ちも負けも一方だけが永遠には続かないようにできている。

 自分の想像する自分の未来は、その通りにおとずれるものだろうか。ある程度当たり、ある程度はずれているものだ。思考は、前提として与えられた情報や知識や条件に基づいて結論を出そうとする機械ともいえる。自分の未来を想像するとき、それを行う思考機能には未来を知るのに必要なすべての情報が漏れなく与えられているだろうか。そんなこたあない。考えて(思考して)煮詰まるのは、それはそのような結論しか出ない情報しか知らなかったからだ。未知や不可知の領分というのが残されているもので、それは大きさも量もまったくわからない代物だったりする。まだまだ絶望することはない。思考が敗北した先にもまだ希望は残っている。

 次にギャンブルはお金にたいする執着を軽くする。ぱっと消えたと思うと、ぱっと入ってくる。そしてまたぱっと消える。こんなものかと思う。もちろんこういう金銭感覚に塗りつぶされてしまうと問題があるけれど、お金にあまりに大きすぎる価値を投影してしまうのもよくない。心理的にそれに縛られすぎてしまうから。
 お金はその利得と制約ともにとても大きな現実をつきつけてくるものだけど、心はそれに対して自由になろうと思えばなれる。ただし「完全に」とまでいってるわけではないよ。でも少しはあるんだよ。そしてその少しの余裕が大事なの。
 余裕があるかないかは、もってるお金の量には関係がない。お金がありあまるほどたくさんあるのは、お金に余裕があるというだけのことで、お金への執着から離れる心の余裕があることとは関係ないわけ。その余裕があると、人はもっとやさしくなれるはず。

 競馬やギャンブル全般は絶望に効く薬だったんだよ。
 薬である以上、副作用や中毒についても理解しておく必要があるけどね。
投稿者: 大澤義孝  | ギャンブル