2012年03月09日

大阪にて

 母が病気で入院してしまった。だもんで定期的に大阪に帰って面倒みてたりする。
ちょっと大病だけど治るとのこと。病院で医師や看護婦さんと話すと、力強く「治ります」というし、そうやって病人を励ます。その声は腹が据わって、それだけで元気が出る。 病院というのは、あたりまえながら病人ばかりで、私なんかは病院に行くと病の「気」に当たりそうで、いや実際、病院の気はやっぱりお世辞にも健康的ですがすがしい気が流れているとはいえない。
 毎日病人をあいてに働くってのは大変なことだろう。エレベーターに乗ると若い看護婦さんが、若いドクターらしき人とおしゃべりしてる。
 「もうここ、やめちゃおうかな」。
 寝たきり老人もたくさん面倒みてる病院で、そういう病人がすし詰めにされてるような病室をのぞいてしまったときはさすがに引いた。九十歳を超える寝たきり老人たちは呆けていて、口をあけて寝ているばあさんには歯は一本もない。中にはベッドにしばりつけられているのもいる。こういうのも老人医療のまがまがしい現実だったりする。元気爆発の看護婦さんが寝たきり老人に明るく声をかけ、機械で痰をズルズル吸い取っていたりする。
 みょうに元気爆発な看護婦さんに、スゲェと素直に感動してしまうんだけど、たぶん元気オーラ全開に到達する人とだめな人がいると思う。若い看護婦さんにこのハードルは大きな試練なのかもしれない。
 寝たきり老人になるのは他人ごとではなく、自分の親も、また自分も、嫁さんにもやがてやってくる未来かもしれない。若いときはそんなことは気にならないものだろうけど、五十が近くに見え始めると、老いと死の問題は、だんだんリアルさをおびてくる。
 昔は死期がせまったらお遍路さんに出て、行き倒れることができた。最低限の食事や寝床は提供してもらえた。行き倒れた修行者は、その土地の人々が弔ってくれた。
 現代のお遍路さんは、観光旅行かファッションみたいになってるけど、元はといえば出家して聖なる巡礼の旅に出て、尊厳をもって死ねるためのシステムだった。全行程千数百キロの道のりを徒歩。それがすべてを物語ってるわけ。「夏休みに車ですべての巡礼地をまわってきました。楽しかったです」なんて人は、なにもわかってない。

 人類史上、死をまぬがれた人はただの一人もいないし、医療がいくら進んでも死にいたるまでの多少の時間稼ぎができるだけだ。「ボケはじめたおばあちゃんが新しい治療法でみるみる回復」なんて話は、それ自体はけっこうなことだけど、でももっと歳食えばやはりボケてしまうわけで。
 老人医療を推進するよりも、尊厳をもって死ねる仕組みを国は作ったほうがよいのでは。老人でなくても、出口なしで苦しんでるニートもいっぱいいるわけだし、スマートに幕引きできるシステムがあればよいのに。霊的修行の旅に出るというのは、なかなかよいと思う。
投稿者: 大澤義孝  | 日記