太陽の墓場という映画を見た。大島渚が監督で1960年に公開。
私が生まれる四年前の映画。ぜんぜん面白くない映画で、こんなクソつまんないのを映画館に観に行く人がいたということに驚いてしまうのだけど、カラーフィルムで大阪の通天閣周辺の町並みが映っていて記録映画としての価値がある。1950年代後半の大阪新世界周辺。どんな町並みかっていうと、汚い掘っ立て小屋が建ち並ぶスラム街。
会話の中に、ガキのころに聞き覚えのある汚い言葉使いがたくさん出てくるのに気づく。ああ、こういう表現ってあったなあと思い出す。いつのまにか使われなくなって、今は大阪にいても聞くことはない。関西弁のイントネーションも昔はこの映画のそれだったと分かる。今テレビから流れてくる関西弁は、ずいぶん洗練されて上品になってる。昔の関西弁はもっともっと泥臭かった。
劇中では戦争の後遺症なのか、あるいはアル中で脳がやられたのか、極端な無教養ゆえなのか、頭が少しおかしい人も多数出てくる。ガキのころ吉本新喜劇で坂田利夫とか間寛平とか、馬鹿アホを演じて笑いを取るというのが大うけしてたんだけど、今から思うと、街中に普通にいた頭おかしい人がモデルだったのかもしれない。でもあまり差別されることなく、みんなごちゃまぜに暮らしていたような気がする。
それから俳優たちの演技がみんなセリフ棒読み。この映画に限らずこの時代の演技はみんなこんな感じ。だけど当時はそんなものと思っていて違和感を感じたりはしてなかった。今の演技と比べると、ぜんぜん感情が乗っていない。あるいは昔の野郎どもは感情表現に乏しかったのか。
たかが半世紀ほど遡っただけで、こんなにも雰囲気がかわることに驚いた。今の日本とはまったく別世界に思えてしまう。なにがちがうのっていうと、やっぱり昔の作品には戦争の傷を引きずってる感じがただよってる。
昔のウルトラマンとか子供向け作品にもそれはある。今の作品には戦争の傷がまったくない。戦争映画にすら残ってないもんね。傷が癒えたのはいいことだよ。半世紀前に比べたら今の日本はユートピアになったんだなと思ってしまう。そうやって完全に傷を忘れたときが暗転のサインかもしれないけどさ。
2016年01月20日
ガルパン劇場版
ガルパン劇場版を観てきた。とてもおもしろかった。ガルパンは女子高生が戦車に乗って試合する(戦う)話。大人気みたいなので内容紹介は省略。戦車で戦えど誰もケガもせず死人も出ない、憎しみのないガルパンの世界は癒やされる。人のことはいえないけど噂通り観客のオヤジ率が高かった。女性客は少なかった。
ところで私は深夜枠のアニメに出てくる女性キャラとか萌えキャラは全部「男の娘」みたいなものだと思っている。外見は女だし女性声優が演じているけど、それで表現されている人格は、男の中の女性性であって、女の中の女性性じゃない。オカルト的に言えば、ガルパンの女の子たちは、男のアストラル体(感情体)を描いたものともいえる。男性のアストラル体というのは実は女性なの。そして女性のアストラル体は男性なの。
そして男性のアストラル体あるいは感情センターというのは、女性のそれにくらべると少し未発達なところがあって、未発達であるがゆえなのかどうかはちょっと微妙なところだけど、女性の感情に比べると単純だったり素朴だったり素直だったり従順だったり一途であったり清潔であったりする傾向がある。
もうずいぶん前だけど自衛隊の観艦式を見学したことがあって、そのとき男の隊員たちが親切に艦内を案内してくれたり解説してくれたりするのだけど、彼らにはなんつーかものすごく素直で従順そうなオーラが漂っているのね。だから彼らがさわやかですごくいい人に思えたり、自分がひねくれてるような気がしたりするほど。そんな話を知人にしたら「そりゃおまえ、反骨精神旺盛な連中ばっかだと命令したって聞かないから軍隊として機能しないわな」と言われて、そりゃそうだと納得したのだった。そうなるように仕込まれているのね。
この自衛隊員たちの従順さ素朴さってのが女性的だと思うんだな。だから隊員たちのアストラル体にふさわしい、それを表現するに忠実な形相を与えたとしたら、ガルパンのように少女たちが戦車に乗ることになる。(戦車じゃなくても戦闘機でも戦艦でも、鉄砲担ぐでもいいけど)。ただし男のアストラル体にふさわしい形相は、女子高生よりかさらに幼いんじゃないかと思う。小学生くらいかもしれない。いやいやミッフィーかシルバニアファミリーか。
ところでガルパンと対極的なアニメで「弱虫ペダル」というのがある。自転車ロードレースで学校対抗で男子高生が競い合う話。たくさんのチームが出てきて競い合う。こっちは選手間のはげしい執念や確執や嫉妬が渦巻くドロドロした心理戦が描かれていて、これは婦女子たちに大人気だった(いまは「おそまつさん」に行っちゃったみたいだけど)。
前述したのと同じ理屈で、この弱ペダに出てくる男の子たちは、実はタカラヅカ歌劇の男役みたいなものだと思うわけ。女性がもつ男性的なアストラル体を表現したもの。
おおざっぱに深夜枠のアニメというのは、アストラル体とアストラル界の次元、つまり魂の次元に重心を置いて描いているのであって、物質界の現実なんかは描かれていないんだな。男女反転した世界が描かれていて、その意味において、深夜アニメは鏡の国の物語なのだ。
そこを解さない人は、「女子高生が戦車を操縦するなんてありえない」などと野暮なことをいう。
ところで私は深夜枠のアニメに出てくる女性キャラとか萌えキャラは全部「男の娘」みたいなものだと思っている。外見は女だし女性声優が演じているけど、それで表現されている人格は、男の中の女性性であって、女の中の女性性じゃない。オカルト的に言えば、ガルパンの女の子たちは、男のアストラル体(感情体)を描いたものともいえる。男性のアストラル体というのは実は女性なの。そして女性のアストラル体は男性なの。
そして男性のアストラル体あるいは感情センターというのは、女性のそれにくらべると少し未発達なところがあって、未発達であるがゆえなのかどうかはちょっと微妙なところだけど、女性の感情に比べると単純だったり素朴だったり素直だったり従順だったり一途であったり清潔であったりする傾向がある。
もうずいぶん前だけど自衛隊の観艦式を見学したことがあって、そのとき男の隊員たちが親切に艦内を案内してくれたり解説してくれたりするのだけど、彼らにはなんつーかものすごく素直で従順そうなオーラが漂っているのね。だから彼らがさわやかですごくいい人に思えたり、自分がひねくれてるような気がしたりするほど。そんな話を知人にしたら「そりゃおまえ、反骨精神旺盛な連中ばっかだと命令したって聞かないから軍隊として機能しないわな」と言われて、そりゃそうだと納得したのだった。そうなるように仕込まれているのね。
この自衛隊員たちの従順さ素朴さってのが女性的だと思うんだな。だから隊員たちのアストラル体にふさわしい、それを表現するに忠実な形相を与えたとしたら、ガルパンのように少女たちが戦車に乗ることになる。(戦車じゃなくても戦闘機でも戦艦でも、鉄砲担ぐでもいいけど)。ただし男のアストラル体にふさわしい形相は、女子高生よりかさらに幼いんじゃないかと思う。小学生くらいかもしれない。いやいやミッフィーかシルバニアファミリーか。
ところでガルパンと対極的なアニメで「弱虫ペダル」というのがある。自転車ロードレースで学校対抗で男子高生が競い合う話。たくさんのチームが出てきて競い合う。こっちは選手間のはげしい執念や確執や嫉妬が渦巻くドロドロした心理戦が描かれていて、これは婦女子たちに大人気だった(いまは「おそまつさん」に行っちゃったみたいだけど)。
前述したのと同じ理屈で、この弱ペダに出てくる男の子たちは、実はタカラヅカ歌劇の男役みたいなものだと思うわけ。女性がもつ男性的なアストラル体を表現したもの。
おおざっぱに深夜枠のアニメというのは、アストラル体とアストラル界の次元、つまり魂の次元に重心を置いて描いているのであって、物質界の現実なんかは描かれていないんだな。男女反転した世界が描かれていて、その意味において、深夜アニメは鏡の国の物語なのだ。
そこを解さない人は、「女子高生が戦車を操縦するなんてありえない」などと野暮なことをいう。
投稿者: 大澤義孝
| アニメや映画
2015年12月22日
シュタインズ・ゲートと幽体離脱
アクティブになれないままもう年末。お茶会も開かないままほったらかしてしまった。またそのうち……。
しばらくロト6の過去データを解析に熱中していたのだけど、そのきっかけはシュタインズ・ゲートというアニメ(最初はプレステのゲーム)だったのよ。劇中で過去にeメールを送れる電話レンジという装置があって、それを使ってロト6の当選番号を過去の自分に伝えるという描写を見て、未来予測への挑戦というか、統計学や確率論の学習もかねて、ロト6を題材に思索を始めたのだった。
シュタゲは再放送だったけど私はまだ観たことがなくて、何度か見てるうちにはまってしまった。昔の秋葉原が舞台で、今はもう消えてしまった店や景色が広がってノスタルジックな気分になったり。お話が以前ネットで注目を集めたジョン・タイターのネタにひっかけてあったりして面白かった。
今から思うと、ジョン・タイターがネットに出現して、大きな注目を集めたのは、彼はそれまでにはなかった「世界線」という概念を携えて来たからだな。匿名ネットで未来から来たことを自称することはたやすいし、予言がまぐれ当りすることもよくある話。そんなのは昔からよくいる予言者とかわらない。ジョン・タイターはタイムトラベルにおける、時間と世界認識に対する新しい考え方を提示したところに真価があったんだと思う。世界線の考え方が科学かどうかは問題ではない。SFの方便としての「ワープ」も発明の一種と考えられるが、世界線もそれと同じこと。
シュタゲの物語が進むにつれて電話レンジはさらに改造されて、意識を過去に送れるようになる。つまり今の自分の意識と記憶が、過去の自分の脳に転送できる。それが意味することは、つまり自分が過去に戻れるということ。非物質的な意識と記憶の転送だから、タイムトラベルの話につきものの親殺しや自分殺しのパラドックスは起きない。主人公の岡部倫太郎は、何度も何度も世界線を横断しながら過去に戻っては人生をやり直す。
過去の自分の体に戻ったといっても、世界線が変わっているから、前とまったく同じ人生が展開するわけでもないが、大筋では決まっていてどうしても岡部が愛する人は死んでしまったりする。過去に戻ったとき、それまで続いていた世界はどうなってしまうのかとか謎は尽きないんだけど、自分の意識と記憶だけが、次々と異なる時間軸と状況下にある自分の体に乗り移っていく体験を岡部は繰り返す。通常は世界線をこえたとき、記憶が継続しないのだけど、岡部は特異体質で継続し、渡り歩いた他の世界線の記憶をすべて保持している。
こういうリアリティって、幽体離脱そっくりだ。体脱してまったく別の世界にほりこまれる。そしてしばらくその世界で活動したあと、また別の世界に移動したり。五感すべてが一気に別チャンネルに切り替わるのは、実はかなり面倒なもので、それまで自分が考えていたとを忘れてしまいやすい。しかし注意深くしていれば、記憶は継続される。
岡部の視点から見た電話レンジによるタイムトラベルは、夢にとてもよく似た経験ともいえる。意識と記憶を過去の自分の体に送るというのは幽体離脱体験と主観的にほとんど同じ。幽体離脱も意識と記憶を肉体そっくりのアストラルエーテル体に送っていると考えればいい。送られた先の世界が、過去だろうと未来だろうと、見知らぬ場所だろうと、それが本人にとってはほかならぬ今だし、その世界が現実同様のリアリティをもってるなら現実とは区別はつかないしそれが現実なのだ。ただし幽体離脱は元の世界線に戻ってくるけどね。多分……そう……多分。
幽体離脱したあと知らぬうちに別の世界線に飛び移っていて、もどった先は別の世界線上にある自分の体ということもありそうな話しだったりする。しかも記憶を保持することに失敗し、移った先の世界線での記憶に書き換えられてしまったら、もはや確認することは不可能だ。
電話レンジはただのおはなしだけど、幽体離脱は現実に自分の身に起きる体験であり現象。誰しも人生に十回くらいは経験してみて欲しいものだ。幽体離脱を経験すると、シュタゲを見る視点も変わってくるのではあるまいか。
アニメの中ではおなじみのタイムトラベル。その起源はH.G.ウエルズの小説「タイムマシン」だけど、今のは相対性理論や量子論から導かれた世界解釈が元ネタになっているようだ。相対論も量子論も、昔勉強したきりでだいぶ忘れているので、あらためて本を読み直した。タイムトラベルの可能性の根拠について書かれた本も物色。
現代の物理学でもタイムマシンは研究されている。ブラックホールになる一歩手前の中性子星を二つ用意してワームホールを作るとか、光速で何年も飛び続け戻ってくるとか、銀河系一つ分のエネルギーが必要とか、とにもかくにも巨大なエネルギーが必要らしい。一万年後も実現はされていないだろう。
タイムマシンが研究されている本当の理由は、タイムマシンを実現するためではなく、それが実現できないことを証明するためだという。親殺しのパラドックスを例に出されれば、誰もがやっぱりなんかおかしいと感じてしまう。「難しい数式のことはわかんねぇけどさ、そんなのありえねぇよ」と誰もが明証で答える。
しかしアインシュタインの方程式通りならタイムトラベルが可能という答えに行き着く。いやいやそんなわけあるまいというわけで研究されているんだって。
しばらくロト6の過去データを解析に熱中していたのだけど、そのきっかけはシュタインズ・ゲートというアニメ(最初はプレステのゲーム)だったのよ。劇中で過去にeメールを送れる電話レンジという装置があって、それを使ってロト6の当選番号を過去の自分に伝えるという描写を見て、未来予測への挑戦というか、統計学や確率論の学習もかねて、ロト6を題材に思索を始めたのだった。
シュタゲは再放送だったけど私はまだ観たことがなくて、何度か見てるうちにはまってしまった。昔の秋葉原が舞台で、今はもう消えてしまった店や景色が広がってノスタルジックな気分になったり。お話が以前ネットで注目を集めたジョン・タイターのネタにひっかけてあったりして面白かった。
今から思うと、ジョン・タイターがネットに出現して、大きな注目を集めたのは、彼はそれまでにはなかった「世界線」という概念を携えて来たからだな。匿名ネットで未来から来たことを自称することはたやすいし、予言がまぐれ当りすることもよくある話。そんなのは昔からよくいる予言者とかわらない。ジョン・タイターはタイムトラベルにおける、時間と世界認識に対する新しい考え方を提示したところに真価があったんだと思う。世界線の考え方が科学かどうかは問題ではない。SFの方便としての「ワープ」も発明の一種と考えられるが、世界線もそれと同じこと。
シュタゲの物語が進むにつれて電話レンジはさらに改造されて、意識を過去に送れるようになる。つまり今の自分の意識と記憶が、過去の自分の脳に転送できる。それが意味することは、つまり自分が過去に戻れるということ。非物質的な意識と記憶の転送だから、タイムトラベルの話につきものの親殺しや自分殺しのパラドックスは起きない。主人公の岡部倫太郎は、何度も何度も世界線を横断しながら過去に戻っては人生をやり直す。
過去の自分の体に戻ったといっても、世界線が変わっているから、前とまったく同じ人生が展開するわけでもないが、大筋では決まっていてどうしても岡部が愛する人は死んでしまったりする。過去に戻ったとき、それまで続いていた世界はどうなってしまうのかとか謎は尽きないんだけど、自分の意識と記憶だけが、次々と異なる時間軸と状況下にある自分の体に乗り移っていく体験を岡部は繰り返す。通常は世界線をこえたとき、記憶が継続しないのだけど、岡部は特異体質で継続し、渡り歩いた他の世界線の記憶をすべて保持している。
こういうリアリティって、幽体離脱そっくりだ。体脱してまったく別の世界にほりこまれる。そしてしばらくその世界で活動したあと、また別の世界に移動したり。五感すべてが一気に別チャンネルに切り替わるのは、実はかなり面倒なもので、それまで自分が考えていたとを忘れてしまいやすい。しかし注意深くしていれば、記憶は継続される。
岡部の視点から見た電話レンジによるタイムトラベルは、夢にとてもよく似た経験ともいえる。意識と記憶を過去の自分の体に送るというのは幽体離脱体験と主観的にほとんど同じ。幽体離脱も意識と記憶を肉体そっくりのアストラルエーテル体に送っていると考えればいい。送られた先の世界が、過去だろうと未来だろうと、見知らぬ場所だろうと、それが本人にとってはほかならぬ今だし、その世界が現実同様のリアリティをもってるなら現実とは区別はつかないしそれが現実なのだ。ただし幽体離脱は元の世界線に戻ってくるけどね。多分……そう……多分。
幽体離脱したあと知らぬうちに別の世界線に飛び移っていて、もどった先は別の世界線上にある自分の体ということもありそうな話しだったりする。しかも記憶を保持することに失敗し、移った先の世界線での記憶に書き換えられてしまったら、もはや確認することは不可能だ。
電話レンジはただのおはなしだけど、幽体離脱は現実に自分の身に起きる体験であり現象。誰しも人生に十回くらいは経験してみて欲しいものだ。幽体離脱を経験すると、シュタゲを見る視点も変わってくるのではあるまいか。
アニメの中ではおなじみのタイムトラベル。その起源はH.G.ウエルズの小説「タイムマシン」だけど、今のは相対性理論や量子論から導かれた世界解釈が元ネタになっているようだ。相対論も量子論も、昔勉強したきりでだいぶ忘れているので、あらためて本を読み直した。タイムトラベルの可能性の根拠について書かれた本も物色。
現代の物理学でもタイムマシンは研究されている。ブラックホールになる一歩手前の中性子星を二つ用意してワームホールを作るとか、光速で何年も飛び続け戻ってくるとか、銀河系一つ分のエネルギーが必要とか、とにもかくにも巨大なエネルギーが必要らしい。一万年後も実現はされていないだろう。
タイムマシンが研究されている本当の理由は、タイムマシンを実現するためではなく、それが実現できないことを証明するためだという。親殺しのパラドックスを例に出されれば、誰もがやっぱりなんかおかしいと感じてしまう。「難しい数式のことはわかんねぇけどさ、そんなのありえねぇよ」と誰もが明証で答える。
しかしアインシュタインの方程式通りならタイムトラベルが可能という答えに行き着く。いやいやそんなわけあるまいというわけで研究されているんだって。
投稿者: 大澤義孝
| アニメや映画
2015年04月06日
ありのままの

その本の中に「明日で死ぬとしたらなにをするか?」という問いがあって、明日までとするとほとんど時間はないってことだから、旅行とか昔の恋人や友に会うとか人生でやり残したことをするとか、そういうのは多分無理だと思う。ドタバタあせって時間切れになるのが関の山だからそういうことはしない。
やっぱたばこを吸うかなぁ(笑)。今年にはいってからたばこをやめているけど、元気がでないのはたばこが無いことも関係していると思う。たばこには数多くの多大なデメリットがついてくる。しかし「百害あって一利ある」のがたばこ。その一利が実は大きい。たばこ好きはその一利を大きく評価する。とはいえやっぱり害はあるのよね。現在は害のほうが大きくなったと判断してやめたんだけど、明日で死ぬなら吸うだろうな。
もう一つ、「言いたいことを言えないとか、怒りを表現する手段を持たないと、心が傷つき病的な状態に追い込まれてしまう」というようなことが書かれていて、そうだよなぁと納得した。
つい先日、初代のスタートレックでカーク船長を演じていた、ウィリアム・シャトナーが、ファンの前で話したときの様子をまとめた画像を見たのよ。(写真をみるとまだ老齢には達していない時のようなので、講演はかなり昔のことだろう)。私も若いころスタートレックは好きだったけどさ、ひどいよねぇこれは、いくらなんでも。最初はコラでつくられたネタではないかと思ったんだけど、どうやら実話だったらしい(※)。映画「ギャラクシー・トレック」に出てきた俳優たちのように、もう少し愛してあげることはできなかったものだろうか。
でもこういう夢をぶち壊しをしたくなる気持ちもわかる。ファンは物語から受けた幻想を彼に投影しまくるけど、本人は製作現場にいたんだから裏も表も知りつくしているわけで、おもしろくもなんともない。だんだん投影されることに嫌気がさしてくるんだろうな。最初はがまんしているけれど、だんだんつかれてくる。憎しみをもつようになるかもしれない。ジョークのつもりだろうけど、やはりファンへの憎しみが含まれているのではないかしら。でもそうなのであれば、ありていにファンにぶちまけた彼の態度は、彼の精神衛生にはよさそうだ。でもいつまでも夢をみさせてあげるのが役者じゃないのかとも思う。高倉健はそれを貫いた役者だったよね。(まあ、ポリシーは皆違うから、どれが正しいってこともないのだけど)。
オカルト(占いも含む)も、スタートレックのような「おはなし」とかなり近い層に位置していて、私も時々、ウィリアム・シャトナーのようにぶちこわしたい衝動にかられる。しかしオカルトの場合、もっと微妙なんだよね。オカルトもおはなしだけど、ちょっとは本当もまざっていたりする。嘘と本当が重なり合っているんだけど、それをばっさりと切ってしまうという扱い方は、やっぱり間違っているような気もするわけだ。それでいつも奥歯にものがはさまったような言い方になっちゃうわけだけど、最近奥歯を一本失ったしなぁ、もう、はさみようもないのかも。
※この記事を書いてから時間がたち、2016年2月になって、実は実話ではなくてお笑い番組の企画だったらしいことを知った。シャトナーは本音で言ったわけじゃなかった、ということになったけど、いやいや本音なんてほんとはわからないところにしまってあるものだしねえ。