2015年04月20日

歯車から人間的な知能は生まれるだろうか?

 人工知能の話題をよく耳にする。グーグルがそれを開発したとか。やがては人間の意識や自我をコンピュータにアップロードできるようになるとか。
 それらはちょっとした話題作りのつもりなのかもしれないし、大まじめで本気の人もいるのかもしれない。

 現在の技術革新はかなり目立っているとは思うのだけど、コンピュータが意識を持つとか、それによって人工生命体ができるとか、機械の脳ができるといった話になると、ファンタジーとしてならそういうネタもいいと思うけど、SFとしては私は認めない。(私もそういう幻想を抱いてしまった時期はあっけどさ)。

 コンピュータってのはパソコンもノパソもスマフォも大型コンピュータも、ICチップでできてきて、外からみるとブラックボックスで、ぱっと見ではどういう仕組みになっているのかわからない。わからないものを前にすると、人はそこに様々な幻想を抱くものだ。黒い鏡を見つめているとヴィジョンが映るように、黒い無知の鏡には、さまざまな幻影が映る。

 その昔、機械式の手回し計算機があった。計算したい値をセットしてハンドルをぐりぐり回すと、内部の歯車が回転することで計算され答えがでる。大変高価な機械だが電卓がない時代には重宝された。
 コンピュータはこれよりさらに複雑だが、原理的には歯車などの機械部品で実現できる。最近話題の量子コンピュータは別として、普通のノイマン式コンピュータは歯車で実現可能だ。
 しかし機械式コンピュータを作ることは現実的には難しい。あまりにも部品点数が多くなりすぎるし、工作精度や物理学的な限界があるからだ。できたとしても、計算速度は遅いし毎日どこかが故障して使い物にならないだろう。
 だから昔はリレー(電磁石で開閉するスイッチ)や真空管で作った。この時代のコンピュータは毎日のように真空管が切れて故障した。
 時代が進むとトランジスタに置き換わり、さらにすすむとトランジスタは超小型化されて小さなシリコンチップの上に何十万個も実装されるようになり、今のコンピュータの姿になっている。
 けれどもコンピュータの原理は昔から変わっていない。今のコンピュータは電子的に実現された歯車で動いていると考えてさしつかえない。

 もし機械式コンピュータが実現されたとしたらどうなるだろう。スマフォですらきっと巨大なビルのような大きさになる。そのなかに精密な歯車が何億個もぎっしり詰まっていて、時計内部のようにカチカチ動いているはずだ。巨大なパイプオルガンが装備されていて、機械仕掛けで音楽を奏でたりする。アプリのソフトウェアは穴を開けた紙テープから読み込まれたりする。あらゆるデータは紙テープに開けた穴の羅列によって表現される。
 機械式スマフォ同士がネットでつながるというのは、ビルとビルの間にベルトコンベアがあって、そこに1と0を表す凸と凹の形の異なる二種類のブロックが、連続的に輸送されることでデータ通信が行われるとイメージすればいい。
 液晶ディスプレイを機械的に実現するとしたら、小さなブロックが格子状に整然と並んだパネルがあり、ブロックの裏表を機械的にひっくりかえすことで文字や絵が表現される。一昔前はこういうディスプレイが実在した。機械式なので動作が遅く、画面が書きかわるまで数十秒かかった。

 機械で表現されたコンピュータの動きは、誰の目にも追えるものとなり、根気よくおいかけていけば、だれでもそれがどのように動いているか理解できるものとなる。それはどこまでいっても金属や木やプラスチックでつくられた部品の集合体にすぎない。
 パソコンもスーパーコンピュータもこれよりもっともっと巨大なものになるけど原理は同じだ。

 さて、こういう歯車がぎっしりつめこまれたビルのような機械コンピュータが建ち並ぶ光景を想像しよう。まるで歯車でできた機械都市だ。ビルをつなぐベルトコンベアが、いそがしく凸凹ブロックを輸送しデータ通信をしている。これはインターネットの寓意といってもよい。

 こういう歯車の機械(コンピュータ)が、人間のような意識を持つことはあると思えるか?
 それは脳を代替するものとなりうるか?
 これは人工生命とよべるものになりうるか?
 歯車コンピュータが相互に連結されネットワークを形成したからといって、なにか人間的・生命的なミラクルな力がそこに宿ると思えるか?

 これらの問いへの答えは、コンピュータがシリコンで超小型に作られていようと変わらない。同じことだ。
投稿者: 大澤義孝  | 哲学

2015年04月15日

人は仮想現実の中では祈らない

 「『死ぬことが人生の終わりではないインディアンの生き方』加藤諦三/著」という本を読んだ。
 アメリカインディアンは毎日太陽への祈りをかかさず行っていて、自然との一体感をもって生きているという。人間は自然の一部だ。だから死んだあと、母なる自然に戻っていくということをインディアンは素直に受け入れる。だから彼らは死を恐れていない。動物を狩り、その命を取って自らの命をつないだように、自分に死が訪れたときは同様に恐れなくその身を母なる自然に返す。彼らは自然と結びついた生き方をしている。

 ところで、バトラーは「魔法修行」の中で一日三度の日拝を訓練メニューに加えている。朝、昼、夕と決まった時刻に祈りをささげるメソッドで、朝の祈りの句は次の通り。
 「御身、永遠なる霊界の太陽よ。今、東天に昇らんとするは目にみえる御身の象徴である。朝の宿りから御身に帰依し奉る」。
 昼も夕もだいたい似たような内容だ。この祈りの句はエホバやキリストやアラーなどの人格的な神ではなく、霊界の太陽に祈りをささげている。霊界の太陽とは、あらゆるものは自分の意識の中にあるという前提の元で、意識の中にある太陽のことと考えればよいと思う。東から昇りつつある物質界の太陽は、霊界の太陽の象徴である。
 このメソッドは「魔法修行」の中で、唯一宗教的なものともいえて、私は自分流にアレンジした幽体離脱訓練法を紹介する上で最後まで扱いに迷った。当時オウムの事件が終わったあとで、精神世界や宗教的なものに対する風当たりは厳しいものに変わっていた。だから一日三度手を叩く(これはシュタイナーの意志の行と呼ばれている)とか、宗教的ではないやり方にかえて祈りについてはあまり触れないことにしたのだが、それは間違いだったと思う。

 「太陽に帰依する」というのは、自然界=森羅万象=宇宙と一体となって生きるということでインディアンのそれと同じ自然崇拝であり、西洋魔術とはそういうものだ。
 日拝はバトラーの魔法に対する精神的姿勢を表しているのだが、魔法のメソッドである幽体離脱やダークミラーとは技術であって、精神的姿勢には関係がないことにもできる。しかしそのように技術だけ取り出しても不毛なものになってしまう。どのような技術もその運用哲学が無ければ不毛になるからだ。

 加藤さんは著書の中で「人は仮想現実の中では祈らない。仮想現実と現実の違いはそこにある」と述べている。ネットロープレの世界で冒険する人々がたくさんいる。彼らはその人工的に作り出された美しいファンタジックな異界の中で、夕陽を見たり星を見たりするかもしれない。しかしそれによって感動するだろうか。フェイクの自然は癒やしを与えてくれるだろうか。自然の中で朝陽や夕陽を見て感動したり、星をながめ宇宙とのつながりを感じたり、宗教的畏敬の念を抱いたりするように、ネットロープレの中の人工環境に同様の感情をもつことがあるだろうか。あるわけがない。

 ではアストラル界にある自然はどうだろう。私はこれまで幽体離脱という現象を説明するとき仮想現実の比喩を使ったことがある。肉体を離れ別世界に行く。アストラル界に行く。その世界で五感と自我をもって行動できる。これは仮想現実のように解せる。では幽体離脱中に祈ることはあるだろうか。アストラル界に広がる野山や海などの自然界や、そこに輝く太陽を見て、そこにいる人や動物や植物を見て、触れて、畏敬の感情や祈りの感情(宗教的感情)が想起されることはあるだろうか。
 私はこれについては素直に「有る」と言える。アストラル界が人工物か自然に属する物かどちらかといえば、間違いなく自然に属するものだ。それは決して仮想現実ではない。アストラル界で自分の思念が反映され、内在的な願望が具現化したりすることも含め、それは人工的なものではなく、自然なるものだし超自然的なものでもある。それは真剣な祈りの対象になりうる。だからこそ体脱した者は、アストラル界の光景を見て感動するのだ。その感動は仮想現実のゲームで得られる感動とは異質なものだ。

 自然界とのつながりを拒否した信念体系の元で行われる幽体離脱は、唯物論的な世界観になる。脳という機械が作り出す幻覚だとか、脳の誤作動だとか、魂もなければ霊もない、死ねばただ塵に戻るだけ。精神も意識も脳が作り出している。人間はロボット、脳はコンピュータというような考えに支配されてしまう。そこに祈りは無い。人は祈らなくなる。祈りという感情を忘れる。宗教感情を忘れる。そして自然と切り離されて苦しむ。

 「インディアンの生き方」本に、「我々は肉体をもった魂であって、魂をもった肉体ではない」という一節があるのだが、今や「魂を持った肉体」どころか、「魂すら持たない機械」になりはてた人々が増えている。
 唯物論で宇宙を理解することは、宇宙は機械であると理解することと同義で、機械とは人間が自然を理解し構造を見抜いた上で、自然界の模倣として作り出したものにすぎない。人間は物事の仕組みを理解すると、それを機械化したがる。しかしそれはどこまでいっても、荒削りな仮想的モデルを作っているにすぎない。そのモデルを作るときに扱いきれず切り捨てた未知なる要素が、必ず背後に取り残されている。
 そういう現実を忘れて、人間を純粋に機械的なものだと見なす考え方は、自分の頭の中の機械的宇宙モデルだけで作られた仮想現実の中に自閉していることを意味する。多分、そういう人は苦しいと思う。その苦しさは、己のその信念が間違っていることをその人に教え、罰しているのだ。
投稿者: 大澤義孝  | 哲学

2012年06月03日

テレビでオウム事件のドラマみたいなのをみた

 テレビでオウム事件のドラマみたいなのをみた。本格的な作りだけど、急所をはずした、つまらないオチだった。麻原ひとりが悪で、彼のたくみな話術にのせられてみんな洗脳されちゃいましたってオチ。
 ちがうね。ああいうのは全部共犯でさ、教祖も弟子たちも、もちつもたれつなんだよ。みんなで悪いことするの。全員でやったも同然なのに、「麻原は本当はなにを考えていたのか知りたい」なんて答えのない問いだよ。ニューラルネットワークが無数のシナプスの発火でものごとを考えるように、組織全員ひとりひとりが無意識で考えていたんだよ。麻原はせいぜいそれの代弁者だ。だからいくら麻原だけに焦点をあてて探しても答えはないだろうし、かといって組織全員の人々を詳細にしらべることは事実上無理なことだと思う。

 で、それが人の集団というもの。会社だってそうでしょ。合法的に悪いことをするために人は集まるもの。大きな悪もあればささやかな悪もあるし、なんともいえないグレーゾーンもあったりする。で、そういうことに手をそめるからお金ももうかるのよ。
 どんな組織だって法律すれすれのところをはしっていたり、ばれずになんとかしのいでいるものだったりする。とくに大企業とか。原子力村とか。国家とか。
 しかし多くの場合「容認できる範囲」と社会からみなされて(どこでもやってる悪だからね)、なにもないように世間はまわっている。
 だけどその集団が望んだ望まないにかかわらず、社会から切り離れて孤立したらまずいことになる。

 「実録・連合赤軍」という映画をみるとよくわかるけど、人の集団ができて、男の指導者とその相棒の女がいて、その集団が外界と隔離されたときから、恐怖の地獄プロセスが始まって全員狂っていくんだよ。オウムだってその点おなじだったと思う。狂い方は集団によってことなるけど、最後は人柱が何本もたつことになる。

 唯一の回避策は、いちはやく気づいた人が、そうなるまえに相棒の女を命がけで集団の中から消去すること。それ以外、恐怖のプロセスを止める方法はない。それがかなわぬときは、一刻もはやくなりふりかまわずひとりで逃げ出すしか手はない。みなが狂っている中で一人だけシラフを保っているのはものすごく危険な状態だ。
 これは自然なプロセスであって、そういう状況におかれたら、どんな集団も狂いはじめるのは必然だからして、だれも悪くないともいえるし、その集団にかかわった人々すべてに責任があるともいえる。
 後の祭りになったあとで、「勇気がなかった」などという反省の言葉にもあまり意味はない。いくら勇気があっても、逃げ出すのが精一杯なのが普通だろう。一人で何人も何百人もと戦える人などまずいない。
 孤立した集団に、地獄のプロセスを回避できる唯一例外があるとしたら、集団の長が真の重心点をもっているときだけだ。ほとんど可能性はないけど。
投稿者: 大澤義孝  | 哲学