2015年12月26日

アニオタは萌え天使を召喚してるのか

外国人アニオタ「聖夜だし二次元嫁と一緒にクリスマスを祝おう!」
モニターとご馳走を食べる海外勢が話題 【海外の反応】
http://www.all-nationz.com/archives/1048375544.html

 こういうのを見つけてしまった。これって完全に魔術の祭壇みたいなもんだよ。神や天使の偶像やテレズマティックイメージ(フィギュアや萌え絵)を飾り、供物と酒を捧げロウソクをともし(これらは火土風水の四大元素を象徴する)、想像の世界で強く思い描きアストラル次元に「力」を召還するんだな。アニメの物語は個々人の信じる神話体系。こういうのが本来の魔術だと思う。遊びとして自然発生するものだけど、実は本気の神遊びだったりする。
 彼らの祈りにより召還された萌え天使の力が、自らのエーテル体にまで降りてきたとき、きっと彼らはリアル彼女(や彼氏)に出会うに違いない。萌え絵はその背後にある力の表象にすぎないから、力が降りてきたとしても、もはやそれは二次元嫁の姿をしていないだろう。だけども本人にはわかるはず。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2015年09月26日

終末警報が届いた

 昔の研究会のメンバーから終末警報がとどいた。
 「来週の月曜28日以降東京・名古屋・大阪・青森・宮城の5ヵ所で同時に、早朝に直下型の強い地震が発生する可能性が高い」んだって。10月中まで警戒期間らしい。十数メートルの津波がきて、地下鉄も水没し、多くの建物が倒壊するらしい。そして火山が次々と噴火する。その後も震災は日本だけにはとどまらず、世界中で天変地異が起きるんだって。
 こわいなー(笑)。万が一にそなえて、パソコンのバックアップを外付けのHDDに保管した。とりあえずしたことはそれだけ。
 最近、ロト6の攻略法を研究している。過去の抽選結果データがすべて公開されているので、それをPerlで解析してみようというわけ。様々な角度からデータの傾向をつかむため、数十行程度の短いプログラムを何十本も書く。短いプログラムを書くのは楽しい。(プログラミングを習得したい人はこういうところから手をつけるといいと思うよ。)
 しかしロト6で将来出現する番号を数学的に予測できるかというと、最初から答えははっきりしていて「できない」。私は頭の体操や禅の公案のつもりで取り組んでいるだけ。無理を承知で、ありとあらゆる無理な理屈を考えるゲーム。そのうち頭パッカーンもあるかもしれない。
 「予測」というのは多少なりとも仕組みや法則がわかっているからできることであって、くじというのはあえてそれができない方法を使って行われる。頭のよい者や知識のある者や力が強い者が勝つのではなく、誰もがただただ運にすがるしかない公平なシステムだ。(タイムマシンでも発明できるなら別だけど)。
 しかし過去データを分析していくと、やっぱり偏りはあるし多少は勝率を上げる戦略がありそうな気がしてくるのね。過去データが千回分ある。じゃあ900回目まで分析して、その先を予想する戦略を立て、それで予想する。そして900回以降のデータと突き合わせ、どれくらいヒットするか見る。シナリオ通りなら、同じ理屈が未来にも通用する可能性は高い。
 ところでロトくじは乱数で数字を選んでも千回買えば末等なら二十五回くらいは当たる。2.5パーセントの勝率。これは確率計算通りだし、Perlでシミュレーションしても同じ結果になる。
 では戦略で買った場合はどうなるかというと、へたな戦略だと2.5%以下になってしまう。ましな戦略なら、4%から1.5%くらいと変動し、平均すると2.5%に落ち着いてしまったりする。さすがに数学の女神はラスボス級。そう簡単に抜け道を見つけることはできない。
 ロト6の過去データは分析すればするほどよくできた乱数に思えてくる。コンピュータが作り出す疑似乱数とは違う。インチキはなく厳正な抽選が行われているのだろう。とはいえそう簡単には諦めるつもりはない。過去データを分析しながら考えていると、いろいろな戦略が浮かんできてそれが楽しい。
 ところで何度も何度も予言してりゃ、地震もいつかは当たるだろうけど、乱数で予想したり、加持祈祷で予想したり、科学で予想したり、どれがヒット率が高いんだろうね。地震予想に関しては、どれも大差がないのが現状だったりする。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2015年08月18日

水が変わった日

 「太秦ライムライト」という映画をみた。時代劇の斬られ役一筋で何十年もやってきた役者の物語。時代の流れにつれ時代劇が落ち目になっていき仕事は激減。たまに作られる時代劇も時代考証無視のアニメのようなお話に変質していく。自分が磨いてきた立ち回りの技も、CGにとってかわられてしまう。ちょっと哀しいお話。
 こういう時代劇の変質がいつごろからおきたのか、明確な線引きは難しいのだけど、だいたい90年代のはじめくらいからだろうか。もっと前からだという人もいる。

 ところで、それまであったものが、あるときから変質してしまうということは、時代劇に限ったことではない。
 毎年この時期になると必ず放送される戦争をふり返る映画やドラマね。最近作られたものはなんかみょうに空々しくウソっぷい。時代劇と同様、変質してしまった感がある。戦争当時の雰囲気、社会の前提条件や常識といった世界観が、もはや今のそれとは大きく異なっていて、いくら史実をもとに再現ドラマを作っても、今の作り手の心の中に昔の世界観が不在なので、空々しいものになってしまうのだろう。
 また昔に作られた戦争のドラマや映画を、今の若い人々が見ても受け取り方は昔とは違ってしまっているだろう。「宗教なんて信じるやつはアホ」なんていってる今の若い人々が、天皇教に夢中になってた昔の日本人の行動原理を理解することはかなり難しいだろう。

 戦争を今風に解釈しなおした再現ドラマが作られ、当時のことを知らない観客がそれを見て当時を知ったようなつもりになる。とはいえ昔の時代劇だって、ほんとに戦国時代や江戸時代の様子を正確に再現することなどできるはずもなく、戦後の新しい世界観で解釈されたものを見せられていたにすぎない。
 戦争ドラマも時代劇もファンタジーとほとんど変わらないのに、CGを駆使してリアルに当時の町並みや戦いの様子を見せられたり、史実や証言を元にしているなどと言われると、半分くらい実話みたいなものだと信じてしまい、始末の悪いオカルトみたいな様相を呈し始め、耐性の無い人々は簡単に洗脳されてしまう。

 人々が歴史を振り返るとき、その見ている時代ごとに世界観が異なっていることに注意が必要だ。世界観の違いを色眼鏡と考えてみよう。ときどき色眼鏡は新しい色にかわる。これは季節の移ろいのように、少しずつ変化していくものだが、夏が決して春でもなければ秋でもなく、決定的に違うものとして認識されるものでもあるように、色眼鏡の色もあるとき別の色に交換されるときがくる。新しい色眼鏡で過去の歴史をのぞいたとき、古い色眼鏡でのぞいたときとはまた異なる歴史認識が生じる。

 ところで「スーフィの物語」という本に、「水が変わった日」というお話がある。ある男が聖者から水が変質してしまう日が間近に迫っていることを教えられる。男はその日に備えて水を備蓄する。そして水が変わる日がやって来た。男は蓄えた水を飲み、変質した水を飲まずにすごした。町の人々は変質した井戸や川の水を知らずに飲んでしまう。
 水が変わりどういう変化が起きたかというと、男と町の人々はまったく理解しあえなくなった。男からみれば町の人々は既知外に見えた。町の人々からは男が既知外に見えた。同じ言葉を使えども、考え方やものの見方が変質してしまい、相互理解が不可能になってしまったのだ。

 この物語がなにを意味しているのか、それは読者の想像と解釈にお任せなんだけど、歴史を見る人々の世界観が時とともに変わってしまい、その結果、歴史認識も変わってしまう、ということの寓意のように私には思える。変わってしまった水とは歴史認識や再現ドラマ。ウケがいいようにリメイクされつづける戦争のおはなし。そしてやがて変質してしまう。
 変わる前の水を備蓄した男は、古い記憶を保持し後世に伝えようとする高齢者たち。

 「歴史を忘れてはならない」と言う。それはその通りだし、記録された歴史が書きかわることもそう多くはないだろう。しかしそれをどう理解するかは時とともに変化する。たとえば「過去の過ちに学び戦争は永久に放棄しよう」と長年いいつづけてきても、水がかわれば別のことをいいはじめたりする。

 ところで、キチガイ水を飲まずにやり過ごした男はその後どうなったかというと、最後はあきらめて町の人々と同じ水を飲み、同じ輪の中に帰っていったのだった。水という誰もが依存しているものが変質するとき、それにあらがうことなどできないということらしい。

 時代の変化は人々の世界観の変化でもある。世界観が変化し共通認識という土台が溶けていくと、過去の誓いもあてにはならなくなる。これが人類が戦争をやめられない理由ではなかろうか。未来の子孫のために、津波が来ることを警告する石碑を残したのに、徒労に終わったのもそういうことだ。もっと時がたてば、原爆も繰り返されてしまうのかもしれない。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2015年05月31日

オクターブの法則と読書

 昨日のお茶会には「蛇は再び立ち上がる」の著者の蛇原氏が来て、ぜんぜん著書とは関係ないけどw、株式投資の厳しい世界を教えてくれた。上がり下がりの額が大きく、百万単位の資金があっというまに三分の一になったりする。競馬でちょと負けたくらいたかがしれている。FXはすざまじくて、資金が30万に増えたと喜んだもつかの間、気がつくとマイナス9000万の借金という人もいるという。こわいわー。
 それからグルジェフの言う「三の法則・七の法則」についての説明をリクエストしていた人がいたので「奇跡を求めて」を読み返して整理して臨んだんだけど、リクエストした本人は本すら読んでいなかった。読んでも眠たくなるとかいって。がっかりだよ。相手がもってる知識に応じて、話もできるわけだからね。
 もうずいぶん前のことだけど、X氏にそういうことをぐちってた人がいた。「集まりを開いているけど、だれも本を読もうとしない。なんなのよ、これは」と。そしたらX氏いわく「千人に一人くらいしか、本を読む人はいないから」とさめた返事だった。
 私にも読書が苦手な時代があった。読むためのコツは色々あるけど、読書は結局慣れだと思う。無理やりでもよむしかない。
 オクターブの法則(七の法則)が説いているのは、なんらかの計画をスタートさせて、物事が進展し完遂に至るまでに、その計画がくじかれてしまう地点が二カ所あるということだ。その地点をインターバルと呼ぶ。
 たとえば本が一冊あり読書を始めると、すぐに読むのを止めたくなる地点が来る。そこをなんとか乗り切ると、しばらくは順調に読書が進むが、終盤になってまた読みたくなくなる地点がやってくる。それも乗り切れば完読できるということ。
 インターバルは物事の進展が阻害される要注意ポイントなんだけど、そこを乗り切るためには普通は自分の意識的な努力によって力を生み出すしか方法はない。時として山をも動かすような決意と努力が必要なこともあって、読書が苦手という人はつまりそういうことで、インターバル超えがあまりに大変だと感じるから止めてしまうわけ。そしてこれまで通り知識を知らないままの生活が続く。そして無意識に自分で規定してしまった限界の枠から出られない。
 ではどうすりゃいいのっていうと、無理やりでも読めばいいんだよ。読書ならその程度の努力で済んでしまう。(文盲だったりすると、話はもっともっと過酷になるけど、普通の人は問題ないはず)。
 しかしそれでも本を自発的に読む人が千人に一人しかいないとすると、それはいかに人が変わることが難しいか、人の生は決定論でできていて、めったなことでは変わらないことを証明しているとはいえまいか。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2015年05月12日

また人間やるのってうざくね?

 ある人がこんなことをいった。
 「今度はもっともっと好条件な環境に転生させてもらえるとしても、やっぱりもう嫌だなぁ」
 この世というのはかなり底意地悪くできていて、お金持ちの家とか、立派な両親の家とか、世間でいうところの「よい環境」に生まれても、そう簡単には幸せになれないムリゲー。幸せも不幸もある一時の状態にすぎず、アップダウンは避けられず、それを楽しめるか、もういやだと思うかだが、最後にはだいたい「もう嫌」というほうに傾き、東洋では出家して解脱をめざそうとなるのが、おきまりのコースなのかもしれない。ところで転生ってあるのだろうか。

 たとえばヒンズー教やチベット密教などは、再びこの世に転生するという。動物に転生したり、徳の高い僧侶に転生したりするけど、こういう世界観ってうんざりするよねぇ。「また人間させられるの?」などと思ってしまう。
 知性なんか低いほうが幸せ指数は高かったりして、動物や魚に転生するほうが人間よりましなんじゃないかと思えたりもする。昔、タロット研究会に来たある女の子は石ころに転生したいといってたっけ。この達観はすごいかも。

 解脱した元修道女、バーナーデッド・ロバーツにいわせると死後の先には輝かしい来世があるらしい。けれどヒンズー教がいってるような、この世に再び転生するわけじゃない。来世では人間をはるかに超えた別種の生命体の一部になるという。なるほど今生の繰り返しではない、別種の生というのなら、またやってみてもいいような気がする。しかしそれは解脱した彼女の来世は多分そうなのだろうというだけで、そうじゃない普通の人々はこの世に再び転生するのかもしれない。解脱者でも異なる二つの人生を生き、双方を比較できるわけではないから、解脱者の来世とそうじゃないものの来世の違いがわかるなんてことはない。

 この世で自分の本当の願い実現する生き方をしないと、つまり自分を偽ることなく、悔いの無い人生を生きなければ、死にきることはできないというようなことが書かれていた本がある。これは言いたいことはわかるけど、ただの信念だと思う。
 地球上には生まれてこないほうがよかったと思えるようなひどい国がある。飢餓と暴力と病気が当たり前の世界で、生き抜くだけで精一杯で、夢だの自己実現だのいってる余裕なんかまったくない人生もある。そういう境遇に生まれた人は、悔いの無い人生など望めず、後悔と恨みの中で死んでいくのだろうか。
 自分がアナハタショックで死ぬと思ったときのことを思い返すと、ちがうような気がする。本当にもうだめってなると、ああしときゃよかった、あれをやり残したとか、そういう感情なんてわいてこないんだよ。この世と自分をつないでいた執着が強制解除されて世界との同一化がはずれてしまう。(まぁ死ななかったんだけどね)。

 ダンテス・ダイジという覚者がいた。詩のような本を何冊か残し若くして亡くなった。うろ覚えだけど彼の言葉の中でこんなのがある。
 「死ぬとき君は気づくだろう。なにもかもがよいということを」
 いろいろと思い残すことがあろうと、これじゃない感ただよう人生だったとしても、みんなそれでよかったんだと思えるってことじゃないのかな。
 アナハタショックのときのことを思い返すとこれに近い。とくに後悔は起きない。

 日本人のお葬式でおなじみの般若心経。この世のありとあらゆるものには実体がない。意識にすら実体はない。だからそういう幻に執着することをやめると、ニルバーナに入れるという説法が書かれている。(ところでみんなこれ信じてるのかな?)。

 この世のものには実体が無いのだとして、そこから考えてみると、この世って自分の死後も残るものなのかしら。自分が死んだあと、自分の残した子供たちは生き続けるのかしら。自分の残したお墓も残るのかしら。普通は「もちろんそうに決まっている」と思っている。しかしそれを証明する根拠はなにもない。
 「エジプトのピラミッドは残っているじゃないか。死んだあとも自分のなしたことは残るに決まっている」と普通はそう考える。だけど「20分前に世界は創造された」というトンデモ理論に対して、科学は反証できない。
 エジプトのピラミッドを残しファラオが死んだことは知ってるけど、その記憶も含め、今自分が知っている知識すべては20分前にまとめて注入され、仮象現実の中に送り込まれたのかもしれない。といわれると、科学では反論不能なのだという(笑)。

 故・池田晶子さんが言うように自分が知っているのは他人の死だけだ。人は自分の死についてはなにも知らない。
 もしこの世が夢だとすると、そこから目がさめると、残した子供も墓も夢だったということになり、きれいさっぱり無くなってしまったりして。大金かけて墓を建てたつもりだったのに、あれって夢の中のできごとだったんだ……てな顛末。

 幽体離脱してアストラル界でモンスターと戦ったりおねーちゃんと抱き合っても、目がさめたらなんにも残っていない。もう一度幽体離脱したら、モンスターもおねーちゃんもそこに存在していたりもする。けど肉体に戻ればうそみたいに消えてしまう。この世もその程度のものかもしれないわけ。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2014年08月18日

お見舞いに行った

 最近、昔の研究会のメンバーの一人が病に倒れた。比較的軽症で済み不幸中の幸いだった。今日は埼玉までお見舞いに行った。昔のメンバー数名が集まった。みんな60歳前後の人々で私は一まわり下なんだけどね。私は電車で二時間。長野から新幹線でかけつけた人もいた。
 昔話はもうほとんど出なかった。X氏が展開していた物語のことも、X氏に対する複雑な感情もみんな昇華してしまったらしい。それでも目の前に直径三十メートルのアダムスキー型UFOが飛んでいるのを見たりする人もいるんだけど、本人にとってはもうどうでもいいことのようだった。みんなもう神話は不要なの。
 窮地に陥ったとき、最後に多少なりとも支えてくれるのは、お仲間同士のつながりなんだな。それはX氏がいなければできなかったものなんだけど、それはX氏やそこから展開された神話より強固なんだなと思った。本当につらい出来事が人生で起きたとき、自分の信じている神話や思想は自分を助けてくれるだろうか。ちょっとくらいの危機はそういうものでも役に立つけど……。
 みんなで担いだ御神輿。御神輿はやがてハリボテになっちゃうかもしれない。なんにでも寿命はあるからね。しかし担いだ共同体はその後も残る。それは集合的アストラル体ともいえて、それにも寿命はあるけれど、そっちにこそ真価があるのではあるまいか。
 だけど私がもっと歳くったときには、それはもうないかもしれないとおもうと、けっこうつらいものがある。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2014年02月10日

21世紀が本格始動

 平田信が証言しているニュースを見た。サリン事件からもう20年もたったのね。この裁判が終わったら、一応事件は完結を迎えるってことになるのだろう。
 もしオウムがテロを起こさなかったら、その後の精神世界業界の流れも、世の中の流れもだいぶ変わっていたはず。そしてもう少し明るい未来になったような気がするのだけど、たらればの想像を巡らせてもしかたがない。
 20世紀から時代という名のヘビの尻尾が完全に抜けて、今年から21世紀が本格始動するのだと思う。あと2年もすれば、日本も大きく様変わりしてそうだ。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2013年08月31日

象徴思考は統失と似ている

 「象徴哲学大系」というマンリー・P・ホールさんの本があって、昔読んだのを再度読みなおしていた。なにやらすごく難解な印象を受けるタイトルだし事実難解な部類の本だと思うけど、ようは神秘趣味の知識のコレクションなのだな。占星術、錬金術、タロット、古代の宇宙論、カバラ、アトランティス、魔術師の伝説、フリーメーソン、薔薇十字団、パラケルススの医療などなど、すべてが象徴で理解され語られていた古代の学問のダイジェストの列挙。
 「神秘」「秘密」「密儀」といった単語が連発される飾りっ気たっぷりの文体には辟易するけど、まぁそれも味のうち。
 今から数百年前、錬金術や占星術は当時の先端テクノロジーだったわけだけど、そこから時代は進み科学の時代がきて、昔のそれらの考え方は捨て去られていった。今では娯楽として残っているだけだ。
 錬金術も占星術も象徴的に物事を考える。それは簡単にいえば物事間の関連性に意味を見いだす考え方。それに対して科学は因果に基づく考え方。
 前者は現代ではしばしば「関連妄想」だと揶揄される。ネットでよく見かける「フリーメーソンの陰謀」というのも、フリーメーソンと関連があるとされる象徴図形やそれらを盛り込んだ絵画などとの関連性を根拠に展開されるものだったりする。関連性は見つかるが、確かな因果はみつからない。フリーメーソンを名乗る団体は複数あり、一枚岩でもなく、どれが本物か見分けもつかない。蓋をあけてみたらただの社交クラブかもしれないし、神様コスプレクラブかもしれない。
陰謀論者たちはメーソンそのものではなく、メーソンの象徴から関連妄想で膨らまされた物語に夢中になっている。

 錬金術も占星術も、今では心理学やただの占いや懐古趣味の宗教みたいなものに成り果ててしまったわけだけど、ずっと読み通していくうちに、この本に書かれている魔法的処方箋は、案外当時はそれなりに機能していたのではないかと思えたのだった。たとえばパラケルススは寒い満月の晩に、野にガラス板を並べて霜が降りるのを待つ。ガラス板に付着した霜を集めるとそれは水になる。これはただの水ではなくて、惑星の諸力がチャージされた特殊な水で、この水で多くの病人を治したという。
 現代の研究者が薬や様々なテクノロジー開発に真剣であるように、古代の人々とて当時の限界の中で真剣に研究したことには違いあるまい。現代から見れば呪術的なテクノロジーでも、それなりに効力ありとみなされたものもあれば、ないとされたものもあって当然だし、昔の研究者があそびほうけていたわけはない。
 それらの研究成果を彼らは暗号や寓意によって、衆愚には理解できないように世に残したなどというのが定説らしいけど、中にはどう読んでも書いた本人が額面通りひねりなしで、呪術的処方箋を残したとしか思えないものも多い。
 昔はこういう処方箋が普通に機能していた時代があったのではないかと私は思ったのだった。大勢がある種の知識体系を受け入れて信じているなら、それなりに機能するように世界はできているのではないかってことだ。
 最近、トンスルの醸造から試飲まで体当たりでレポートしている動画を見たのだけど、陰陽五行説に基づいた東洋医学の体系では、大きな薬効があるとされる。西洋医学を知らず、国民全員で東洋医学を信じている社会では、効き目も変わってくるのではなかろうか。(私は飲みたくないけどね)。
 古代のテクノロジーは時代遅れになって、信じる人も少なくなった。だから効き目も薄れてしまった。つまり魔法が現代では(ほとんど)効かない時代になった。これはその昔に起きた、アセンションみたいなものではなかろうか。とても広範囲に及ぶ規模で、人々の考え方が変わってしまう時期というものがあったということ。
 昨今、アセンションが来るって話があったけど、今の科学というのもそのうち古くさいものに変わっていく可能性もありそうな話だったりする。科学に変容が起きるとは限らず、別の分野かもしれないけど。
 象徴思考の時代は長くつづいた。古代ギリシアの時代から18世紀くらいまではそうだった。ついでにいうと、象徴思考は行きすぎると現代では統合失調症(精神分裂病)と呼ばれる。なんにでも関連があるように思えてきて、強固な妄想にとらわれ、幻聴や幻覚が多発する。ところが18世紀以前は統合失調症の記録が見つからないという。万人が統失患者と同じ、関連に基づく発想法をしていたのかもしれない。そういう社会なら統失は病気とは言われないだろう。そして現代から見ればまともなこと(地球が太陽のまわりを回っていると)を言ったガリレオは異端認定されひどい目にあわされた。
 彼は望遠鏡を用意し、王侯貴族たちに披露した。遠くの景色を近くに引き寄せてみせるすばらしい道具だ。貴族たちはみな「すげー!」と言った。そして夜になってやっと本番。ガリレオは望遠鏡を月に向けて、貴族たちに見せた。そこには穴ぼこだらけの月の姿が映った。当時は月というのは神が作りたもうたもので、ツルツルのピカピカの玉だと信じられていた。「どうよ?」とドヤ顔のガリレオ。そしたら偉い人々は「あー、足下のこさえたこの望遠鏡というものは、近くの景色を見るのには有効だが、遠くのものに対しては真実の姿を映せないようじゃな」といって誰もあばた顔の月の姿を信じてくれなかった。
 彼らは妄想を強固に信じている統失者とたいして変わらない。統失の妄想を解除するためのあらゆる説得は無意味と言われる。ガリレオが証拠をつきつけても無駄だった。
 統失というのは社会的な病気とも言われ、それを受容できる社会においては、病気認定はされず、むしろシャーマンや巫女や予言者のような地位を与えられたりもする。デルフォイの神託所なんてのが現代にあったら、そこにいる巫女は立派な統失かもしれない。国民全員が統失なら、統失患者はその国には一人もいない。ようは住む世界の位相の違いで、病気といわれたり、普通といわれたりするようなところがある。
 ところで象徴思考の時代が二千年以上続いて、18世紀あたりから切り替わりはじめて、たった三百年でもう次のアセンションというのは早すぎるような気はする。短周期で起きる小さなアセンションというのがあるのかもしれないけど、どのみち変化は百年くらいかけて起きるものだから、その渦中にいていち早くその変化を感知するのはごく少数だろう。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2013年06月15日

IEの謎の振る舞い

 ここんとこ変なことが多発して、ネタとしては面白いんだけど、自分に近すぎたり問題ありすぎたりして書くにかけない状況が続いている。だけど一つだけ気になることを書いてみる。
 インターネットエクスプローラのことなんだけど、ページをブラウズするたびに、特定のサイトに必ず接続するようになってるのね。たとえば自分のサーバにテストページを用意する。ページには「TEST」とだけ書いてある単純なページ。広告バナーなどよそのサイトからデータを引っ張ってくるスクリプトは一切ないものを用意する。そしてTCPのモニタリングツールも用意しておく。
 テストページにIEでアクセスすれば、そのURLだけにIEは接続するはずなんだけど、akamai-technology.comとか1e100.netというサイトにも平行して接続するのね。前者はマイクロソフトが管理するサーバ、1e100.netは10の百乗の意味でこれはGoogleが管理するサーバ。
 他のページをブラウズしても、やはりこの二つに接続して、なにかデータを送信している様子。一瞬の出来事でモニタリングツールを使っていても見落とすことが多い。送信しようが受信しようが接続すれば、すくなくとも自分のIPは相手に伝わってしまう。
 でもIEは世界中で何億本も可動しているわけだから、前述の謎のサイトには膨大な数のアクセスが集中するわけで、これも調べてみると、何百台ものサーバが待ち受けしているようす。
 ネットを調べると少数ながら気づいている人々もいるようで、「これはなんだ?」と疑問を投げているが、明確な返答は見つからなかった。「世界規模のサイト視聴率調査ではないか」という意見が書かれていたけど、それが私には一番納得できる。エシュロンにつながってるのかなぁ。
 それから約1年前にマイクロソフトは「グーグルメールは盗聴されている」と公に告発してたんだよね。それからグーグルもそのころにサイトポリシーを書き換えて、「これからは個人情報を収集します」と宣言した。しかし告発していたMSが、どうしてグーグルが管理するサーバーに接続するようになっているんだろう。告発は猿芝居なのかな。
 今、ほんとに大規模な個人情報収集が行われているんだと思う。フェイスブックもツイッターもユーチューブも検索エンジンも背後ではみんなつながっていると考えておいたほうがいい。分散している情報を収集し、ジグソーパズルを組み立てるように、より完全な個人情報とすることができる。それがなにを意味しているのかはくだくだ言わない。怖いと思う人もいるし、怖くない人もいるだろうから。
 ただ、これからの時代はセキュリティ意識を高くもつことが必要だなと思うわけ。パスワードやクレジットカードの管理とか。ウィルス対策とか。フィッシングとか。ほんと気をつけたほうがいいよ。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2013年03月19日

今日、こんな夢を見た

 『高い場所から都市をながめている。何千何万という建物が広がっている。ところどころに小高い丘があって木々が茂っているのも見える。
 はるかかなた、地平線上で黒い煙が立ち昇っている。十数本の煙の柱が上空高くまで達していて、遠くからこれだけはっきり見えるのだから、現地では大変なことになっているに違いない。自分が見ている方向は西のようだったが根拠なく、そのように思っていた。そこで目が覚めた。』

 
 昔これと同じような夢を見たことがある。阪神大震災の前日だった。そのときは煙の柱ではなく、地平線のはるか彼方でビル群が炎上している夢だった。
 同じ夢を見る事は私にはかなり珍しいことなので記念にブログにも残しておくことにした。
 こんな夢を見たからといって、逃げ出すこともできないし、食料や水を確保するでもなし。夢だしね。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2013年03月16日

読書と雑記

 「蛇は再び立ち上がる(蛇原岳鳴/著)」って本を読んでるところ。ここんところ本を読む時間がとれなかったので本に飢えている。
 この本は聖書とヒットラーにからめた関連妄想爆発の小説。表紙の絵が可笑しい。荒削りな文章のなかにときどきはっとするようなひらめきが見える。詰めが甘いところが多々あるけど発想が面白いのね。もっと評価されてもいいような気がする。

 時間もずいぶんたって通信講座の登録者数も2500人を越えるのもまじか。次の本が出たらお知らせしようと、グループ配信のための準備をしてるとこ。それから講座の途中で受け取ったメールを読み返していた。
 「幽体離脱は明晰夢なんかと比べものにならないくらいリアルでより感覚的で怖いくらいだった」というコメントはなんかうれしかったな。幽体離脱ってのは同じ体験を共有できないものだけど、共感はできるんだよね。
 似たような話を聞いたとき共感が生じてピンと来るものと来ないものがある。これは字面の問題ではなくて、それを書いた人とのある種のテレパシックなコネクトだろうな。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2012年12月18日

50代は死に方を考えるのか

 今年は葬式に出る機会が多かった。そのとき会った私よりちょっと上の50代のいとこは、腫瘍マーカー陽性だったそうで、最近ジョギングを始めたという。健康のためかと思いきや、「ぽっくり逝きたいから」だという。その人いわく「ジョギングしている人は突然死しやすい」らしい。まあな、スポーツは健康に悪いからな。
 そういえば50代の某氏のホムペをひさびさにのぞいたら、短時間睡眠、完全菜食、ジョギング、オーバーワークとハードな生活を送っているらしい。しかも「もう自分自身や個人のことは小さなものにすぎず、もっと巨視的な宇宙的なスケールで物事を見ている」などとあっちの世界に両脚つっこみそうなことを書いている。この人もぽっくり逝こうという魂胆なのかしら(笑)。他にも50代のメル友がいるけど、「いかにして死ぬかを考えてる」なんて話が飛び出したことがあった。
 50代というのは両親ともに亡くなって、子供の問題もほぼ片付いて、自分の死について考える年齢なのかもしれない。
 今度はうちの母親や親戚の70代から90代と話をすると、うってかわって命根性旺盛だったりする。死ぬことなんか考えていない。癌になろうが「そんなの手術で切ってしまえば治る。寝てるうちに医者が治してくれるわ」ってなもの。「まだまだ生きるでぇ〜」なんて言ってた人もいた。食事もぜーたくだったり快楽主義のような印象を受ける。
 この差はいったい・・・・

投稿者: 大澤義孝  | オカルト

糞坊主の話

 最近のお坊さんね、なにか考えてんだかね。念仏となえおわったらちょろっと説法するんだけど内容がひどい。
 ある坊主は「亡き人が成仏したかどうか、今日ごはんを食べる前に割り箸を割って占ってみてください。キレイに割れたら成仏した証拠、ナナメに割れたら成仏していません」。
 バカかおまえは。成仏させるためにおまえを呼んで念仏唱えさせているんだろうが。この能なし!役立たず!
 またある坊主は「焼香のときのお香というのもピンキリございましてね。上等なものはひとつまみン万円でして、それはそれはよい香りがするんですわ。うへへ」。おまえさーすげー煩悩だよな、それって。俗物の塊じゃないか。
 またある坊主は「うちは他力本願で救われる流派であって、自力で救われるんじゃない。この点だけはお間違えの無いように。それからこのまえはビールをたくさんいただきまして、どうもどうもありがとうございやす」。だからどーした。それにおまえ三年前の葬式のときとまったく同じ話してるじゃないか。よその葬式でも同じ話してんだろ。なにいってるかさっぱりわかんなかったけど、ビールがうれしかったことだけは分かったわ。
 これまで何度も葬式には出たけど、まともな話をする坊主を一人も見たことがない。ただの読経マシーン。いや、読経マシーンに徹してればまだいいものを、へたな説法で呆れた本性をさらしてしまう。
 それから参列者の誰一人、私も含め、どんな経を唱えているのか、その経になにが書かれているのか知らない。坊主も説明しない。そして念仏のあとの坊主の説法をまともに聞いてる人もいない。まともに聞いてりゃ噴飯ものだ。念仏同様聞き流しているのが葬式の正しいお作法。
 もうこういう葬式ってやめたいな。みんなやりたくないけど、これまでの流れ的にやらざるをえないってだけで続いているとしか思えない。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2012年09月30日

9月も終わり

 今年は母が入院したり、ここには書けないけどゴタゴタすることが多くて落ちつかなかったが、だいぶ落ち着いてきた。
 母はほぼ全快。医療ってものを色々考えさせられた。最初の手術のとき、前処置の気道カニューレ留置で失敗。気管を突き破り食道に穴があき、さらに肺気胸を併発。手術続行不能になって中止。失敗した先生はオロオロ、オロオロ。医療チーム総出でごめんなさい。「えーっ!」とは思ったけど、怒っても治らないし、自分だって魚をさばくときたまに失敗する。医者だって同じだろう。
 別の病院に救急搬送して処置を受ける。再び戻ってきて再入院。さらに入院中にノロ・ウィルスに感染(どうしてそうなる?)、そして手術失敗のときの傷は治癒。しかしがんはそのまま。一ヶ月時間を無駄にする。この病院スタッフは自分らの手におえないと判断し、今度は国立総合病院に転院。
 でも結果的にはそれでよかった。最初の病院で行う予定だった手術よりハイレベルな手術を受けられた。

 がんという病気は別の生命体に寄生されるようなもので、ぶった切って治すのが基本。「手が罪を犯すなら手を切り取って炎の中に投げ入れよ。あなたすべてが炎に焼かれるよりはましである」という黙示録みたいなのとかわらない。ぶった切る技術は高度に発達しているが、切り落としたものは永久に失われる。しかしそれしか方法はない。嫌な病気だ。
 最初の病院からは母の退院後、再び謝罪に来てくれた。治ったことだし、もうわだかまりはない。

 手術のあと母が神秘体験していた。ベッドで夜目を覚ましたら、となりに兄が寝ていたのだという。しかもその兄の横には墓石が置かれていたという。母親は夢を見ているという自覚はなくて、普通に目をあけてそれを見たと私にいう。アストラル界を肉体にいながらにして見ていた。
 このときの母親の意識状態は普通ではなくて、譫妄状態というものらしい。手術後そういう状態が起きうることは事前に医師から説明を受けていた。家とは異なる環境で寝たきりになると、譫妄状態に陥りやすいという。
 私は母に「ずいぶん世話になったんだから、今のうちに電話するなり手紙を書くなりして、感謝を伝えておいたほうがいいよ」とだけ言っておいた。
 この母の兄に当たる人は、母が国立病院に入院する前日、見舞いに来てくれていたのだった。高齢で末期癌で(といっても多少は行動できる)、顔には死相が出ていたので先は長くないと思っていた。手術から約一ヶ月、母が退院するほんの少し前、兄は先に逝った。
投稿者: 大澤義孝  | オカルト

2012年05月31日

ガラクタためこんでると病気になる

 母が入院しているあいだに、実家の大掃除をはじめた。おびただしい量のガラクタの山。たんす、押し入れ、てんぶくろ、戸棚、あらゆる収納スペースにスキマなくぎっしりつめこまれた無数のガラクタやおびただしい衣類。
 こんなところにいたら病気になると、無慈悲なまでのゴミ捨てを敢行した。しかしいくらゴミを捨てても次から次へとゴミが見つかる。三週間、毎日掃除と整理を続けてやっとおちついてきた。ゴミ袋約三十個、粗大ゴミも多数捨てた。(それでもまだ半分くらいなのだが)。
 家は人格といわれるが、古いもので埋め尽くされた家は、新陳代謝がひどく低下した老人の体をおもわせる。
 私がゴミをすてまくっていたとき、病院で母はずっと下痢がつづいていた。ゴミ捨てがおわったとたん下痢はとまった。w
投稿者: 大澤義孝  | オカルト